慶應義塾普通部
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度33分6.8秒 東経139度38分32.7秒 / 北緯35.551889度 東経139.642417度 / 35.551889; 139.642417
慶應義塾普通部(けいおうぎじゅく ふつうぶ、英: Keio Futsubu School)は、神奈川県横浜市港北区日吉本町一丁目にある私立男子中学校。
慶應義塾の小中高大一貫教育を構成する一貫教育校の一つ[1]。慶應義塾において中等教育を行う一貫教育校としては、ほかに男女共学の慶應義塾中等部と慶應義塾湘南藤沢中等部が設けられており、普通部は唯一の男子校で最も古い中学校である[1]。普通部における「普通」とは、「普(あまね)く、通ずる」ような学びを意味しているとされている[2]。
入学者は、一貫教育校の小学校である慶應義塾幼稚舎からの60?70名と[3]、外部の小学校から入学試験に合格した約180名(内部進学者数により変動)で構成されている[4]。全課程を終えて普通部長からの推薦を得ることができれば、一貫教育校の4つの高等学校から選択して進学することができる[5]。 普通部という名称は、1890年(明治23年)に慶應義塾に大学部を設置する際に従来の課程を「普通部」と命名したことに由来している[6][7]。中等教育課程としては1898年に5年制の「普通学科」として成立し、1899年に「普通部」と改称された[6]。このため、慶應義塾普通部の設立は1898年とされている[1]。 戦後の学制改革の際、普通部は新制の中学校と高等学校(慶應義塾高等学校)とに分かれたが、その際に普通部の名称はそのまま新制中学校へ受け継がれた。「『普通部』という名称は新制高等学校の普通科と紛らわしい」という理由で、当時の文部省からの認可が遅れたという逸話が残っている[要出典]。名前に「中」が含まれない唯一の中学校である[要出典]。 1871年から慶應義塾は現在の三田キャンパスが位置する場所にあったが、1917年に普通部は現在は慶應義塾中等部が所在している三田綱町に移転、戦災のために一時は幼稚舎に身を寄せていたが、1951年から翌年にかけて現在の日吉へ移転した[6]。
略歴
データ
創立
公式には1898年[1](1858年、1868年、1890年、1899年とする解釈も存在)[要出典]
部長(校長職に該当)
(2022年10月 -)森上和哲
沿革普通部教場(1901年建築)三田綱町時代の校舎(1922年頃)谷口吉郎設計の校舎(1951年竣工)
慶應義塾の始まり
1858年(安政05年) - 福澤諭吉が江戸築地鉄砲洲(現:東京都中央区明石町)に蘭学塾を開く[6]。
1868年(慶應04年) - 芝新銭座(現:港区浜松町)に移転し、慶應義塾と命名する[6]。
1871年(明治04年) - 三田に移転[6]。
1877年(明治10年) - 私立中学校となる[要出典]。
1880年(明治13年) - 各種学校となる[要出典]。
1881年(明治14年) - 幼童演説会を開催[8]。
1890年(明治23年) - 慶應義塾に大学部(現:慶應義塾大学)が新設され、従来の課程は普通部と称されるようになった[6]。
中等教育課程としての普通部
1898年(明治31年) - 慶應義塾の一貫教育の制度が確立され、普通部は5年制の中等教育課程として「普通学科」と改称される[6]。この年が普通部の設立年とされている[1]。
1899年(明治32年) - 再び「普通部」と改称する[6]。
1900年(明治33年) - 制服・制帽の着用を義務化する[9]。
1906年(明治39年) - 専門学校入学資格の指定許可を受ける。
1916年(大正05年) - 第2回全国中等学校優勝野球大会(夏)で優勝[6]。
1917年(大正06年) - 三田綱町(現在の中等部所在地)に移転[6]。