慶應義塾大学野球部
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慶應義塾体育会野球部慶應義塾大学・硬式野球部のユニフォーム
加盟団体東京六大学野球連盟
本拠地神奈川県横浜市港北区下田町2-14-5
創部1888年
監督堀井哲也
公式サイト ⇒慶應義塾体育会野球部
リーグ戦成績
リーグ成績優勝40回
全日本大学野球選手権大会
出場回数12回
最高成績優勝4回
明治神宮野球大会
出場回数12回
最高成績優勝5回
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慶應義塾体育会野球部(けいおうぎじゅくたいいくかいやきゅうぶ、: Keio University Baseball Club)は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。慶應義塾大学の学生によって構成されている。球界に幾多の人材を送り出し、早稲田大学野球部とともに日本野球の創成・発展を支えてきた。OB組織の名称は「三田倶楽部」。

ユニフォームは、グレー色の生地に「KEIO」と表記されたもの。野球帽には、「K」の一文字が取り付けられている。
歴史三田ベースボール倶楽部員
(1891年5月)第1回慶早戦の両校選手
(1903年11月21日)三田綱町球場
(1918年春の慶明戦1928?1929年頃の野球部出陣学徒壮行慶早戦体育会野球部合宿所(日吉)日吉グラウンド日吉グラウンド
戦前

1884年頃からアメリカ人教師ストーマーの指導で野球を始める塾生が現れ始め[1]、日本初の野球チームといわれる「新橋アスレチック倶楽部」にも参加し練習を行っていた。1888年にアメリカから帰国した岩田伸太郎が塾内に野球を奨励し、「三田ベースボール倶楽部」が発足した[2]。この時を野球部の創設としている。1892年には塾体育会創設とともにその傘下となり、翌1893年6月19日には当時最強といわれた一高に初挑戦で勝利を収めた。1901年には日本の野球チームで初となる国内遠征を敢行している[3]

1903年11月21日、新興チームであった早稲田の挑戦を受け、三田綱町球場で第一回の早慶戦(慶應での呼称は慶早戦。以下、本稿では「慶早戦」で統一)を行い勝利を収め、両校は翌年から春秋2回の定期戦を行うことを確認した。1904年6月2日、前日の早稲田に引き続いて一高を撃破、1893年の時と違い全員レギュラーで臨んだ一高を破ったことで慶早の勇名は一挙に轟き、慶早戦は一躍日本球界の覇権を争う試合として大きな熱狂を呼んだ。しかし応援合戦が過熱したことから1906年11月10日、1勝1敗で迎える第3戦の前日に中止となった。以後、慶早戦は1925年の東京六大学連盟結成まで19年にわたって中断されることとなる。

慶早戦中断の間も慶應は技量の向上に努め、日本球界の発展をリードする存在であり続けた。1907年10月にはハワイ・セントルイス大学を招いて国内初の海外チーム招待試合にしてこれも国内初の有料試合を挙行した。その後もアメリカの大学チームをたびたび招聘、1908年にはハワイ、1911年にはアメリカ本土に遠征を行い29勝20敗1分と勝ち越しを収めた。同年OB組織としての三田倶楽部が設立し、早稲田OB組織である稲門倶楽部との間に「三田?稲門」戦を始めたが、早稲田から絶縁状が届くなど[4]慶早間の亀裂は埋まらずにいた。一方では創部間もない明治大学野球部を指導し、1914年からは慶・早・明の3校からなる三大学リーグ戦が始まり、法政大学立教大学が相次いでこれに参加。

1925年、東京帝国大学が当時の五大学連盟に加盟、これを機に慶早戦再開の機運が盛り上がり、内海弘蔵(明大野球部長)と武満国雄(法大監督)が中心に[5]「再開に応じないチームを外して新しいリーグを設立する」として慶早両校に再開を迫った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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