慶應義塾大学医学部(けいおうぎじゅくだいがく いがくぶ、英称:Keio University School of Medicine)は、慶應義塾大学に設置されている医学部。慶應義塾大学大学院医学研究科(けいおうぎじゅくだいがくだいがくいんいがくけんきゅうか)は、医学を研究する慶應義塾大学の大学院。
略称は慶応医学部。 1917年(大正6年)、慶應義塾大学部に医学科が設置[1]。創立に尽力した北里柴三郎が学長となった[2][3]。1920年(大正9年)に慶應義塾大学医学部と改称、慶應義塾大学病院を開設した。 慶應義塾大学医学部は、福澤諭吉の「実学の精神」、「独立自尊」、「半学半教」の精神に加えて、北里柴三郎の「基礎臨床一体型医学・医療の実現」を教育方針に掲げ、「フィジシャン・サイエンティスト」の人材育成に取り組んでいる[4]。 医学教育では、「自主学習プログラム」を設け、興味ある研究テーマについて学生たちが自ら設定し、第一線で活躍する研究者の指導を受け、基礎、臨床に関わる研究に主体的に取り組めるようにしている。 また、欧米各国への海外留学プログラムなどを用意している。 研究面では、医療系三学部連携による高度な医療研究、理工学部との医工連携では医学ロボットの開発などの共同研究、経済学部、文学部から健康マネジメント研究科、 政策・メディア研究科など様々な学部、研究科との連携では、現代の医療の諸問題の研究などが展開されている。 慶應義塾大学医学部は、日本全国に独自の医療ネットワークを作り、慶應義塾大学病院、卒業生と三四会のサポートによる100の関連病院、35の教育中核病院を用意している[5]。 また、国内外の研究機関、海外の大学とも積極的に人材交流が行われている。
概要
沿革
1873年(明治6年) 慶應義塾医学所を開設(その後、1880年(明治13年)に廃止)。
1917年(大正6年) 慶應義塾大学部に医学科を設置[1][注釈 1]。
1918年(大正7年) 医学科附属看護婦養成所(現在の慶應義塾大学看護医療学部)を設置[1]。
1919年(大正8年) 四谷区西信濃町に医学科新校舎を開設。看護婦養成所も同地に移転[6]。
1920年(大正9年) 大学部医学科を医学部に改組。慶應医学会発足[1]。大学病院を開設。初代医学部長兼病院長は北里柴三郎[1]。
1921年(大正10年) 和文学会誌『慶應医学』創刊(現在休刊中)[7]。
1922年(大正11年) 医学部附属産婆養成所を開設[1]。
1923年(大正12年) 関東大震災で大学病院が救護活動を行う[8]。
1926年(大正15年) 食養研究所を設立(1990年廃止)[1]。
1929年(昭和4年) 予防医学校舎竣工[1]。
1936年(昭和11年) 日吉第二校舎竣工[1]。高松宮・同妃が医学部を視察[9]。
1937年(昭和12年) 北里博士記念医学図書館竣工(1944年慶應義塾に寄贈)[10]。特殊薬化学研究所を設立(1997年廃止)[1]。
1941年(昭和16年) 月ヶ瀬温泉治療学研究所開設(1958年廃止)[1]。
1944年(昭和19年) 慶應義塾大学附属医学専門部を設置[11]。
1945年(昭和20年) 看護婦養成所と産婆養成所が合併し、看護婦産婆養成所となる[12]。