慶應義塾図書館旧館
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慶應義塾図書館旧館

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情報
旧用途図書館
設計者曾禰中條建築事務所
施工戸田組
事業主体慶應義塾
構造形式煉瓦造(増築部分は鉄骨鉄筋コンクリート造)
建築面積688 m² ※竣工時
階数2階建、地下1階、一部3階、書庫6階
高さ.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

15.1 m(全館)

18.9 m(八角塔)

着工1909年(明治42年)6月1日
竣工1912年(明治45年)4月15日
開館開所1912年(明治45年)5月18日
改築

1927年(昭和02年)第二書庫増築

1961年(昭和36年)第三書庫増築

所在地108-8345
東京都港区三田2-15-45
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度38分58.0秒 東経139度44分37.7秒 / 北緯35.649444度 東経139.743806度 / 35.649444; 139.743806 (慶應義塾図書館旧館)座標: 北緯35度38分58.0秒 東経139度44分37.7秒 / 北緯35.649444度 東経139.743806度 / 35.649444; 139.743806 (慶應義塾図書館旧館)
文化財重要文化財
指定・登録等日1969年(昭和44年)3月12日
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慶應義塾図書館旧館(けいおうぎじゅくとしょかんきゅうかん)は、東京都港区三田慶應義塾大学三田キャンパスにある大学図書館で、三田演説館と並んで慶應義塾大学を象徴する建造物の一つである。国の重要文化財(建造物)に指定されている。

1912年(明治45年)開館時の正式名称は慶應義塾創立五十年紀念図書館。1982年(昭和57年)に図書館新館が開館した後は旧館と呼ばれるようになった[1]
沿革
前史

慶應義塾創設者となる福澤諭吉は早くから図書館の重要性を認識し、1866年慶応2年)に刊行された『西洋事情』初編巻之一で西洋諸国の都府の「文庫」を紹介していた[2]

1871年明治4年)に慶應義塾が三田の旧島原藩邸に移転すると邸内の「月波楼」の一室を図書室とした。次いで1887年(明治20年)に煉瓦講堂内の一室に書籍館を設けたが、蔵書数が増えるにつれて独立した図書館の建設を求める声が次第に高まっていった[3]

月波楼(1893年頃)

煉瓦講堂内の一般読書室(1907年)

図書館の建設

1907年(明治40年)の慶應義塾創立50周年の記念事業として、以前からその必要に迫られていた図書館建設の議が起こり、前年12月に「慶應義塾創立五十年紀念図書館建設趣意書」が発表され、同時に資金募集を行ったところ、募金額は30万円以上に達した[4]

図書館の建物を木造とするか煉瓦造とするかについては意見が分かれた。建設費を節約して工科を新設してはどうかとの意見もあったが、塾長鎌田栄吉は不燃物の図書館を造るべきだと主張し、結局煉瓦造とすることで決着した[5]

建設地は三田山上北東の一角に決定し、建築設計は当時の慶應義塾評議員会会長荘田平五郎を通じて曾禰達蔵に依頼され、建物のデザインは曾禰中條建築事務所から提案された12、3種類の中から最終的に中條精一郎ゴシック式のプランが採用された[6]

工事請負は戸田組が落札した[7]。当時の戸田組は幹部制を採用したばかりの駆け出し組であり、この工事を引き受けたことは並々ならぬ名誉と感じていたようである[8][9]

図書館の建設工事は1908年(明治41年)12月24日に根切工事と菱矢来建設から始まり、翌年5月26日に地鎮祭、地階の石積工事を終えた11月23日に安礎式が行われた。内装工事と周辺整備も曾禰中條建築事務所の下で進められ、1912年(明治45年)4月15日に戸田組より曾禰・中條両人立会いの下で建物の引き渡しが行われた[10]
図書館の開館竣工時の図書館

開館式は1912年(明治45年)5月18日に2階大閲覧室で行われ、塾長鎌田栄吉の挨拶に続いて徳川頼倫の祝辞、徳川家達の祝辞(田中一貞代読)、日本図書館協会会長西村竹間の祝辞、社頭福澤一太郎の謝辞があり、図書館の建物は18日夜から3日間にわたってイルミネーションで彩られた。慶應義塾消費組合では開館記念のアルバムや絵葉書、純銀メダル(彫刻家畑正吉制作)などが販売され、絵葉書は三田界隈の書店や文房具店でも市販された[11]。同年11月1日から外来閲覧者も利用可能となった(入館料は1回5銭、1ヵ月1円)[12]

開館時は本館2階の大閲覧室に150席を設けていた。来館者は貸出台の職員に閲覧したい書籍の目録カードを提示し、職員は大閲覧室の西隣の書庫から書籍を取り寄せた[13][14]

書庫は閉架式で、地階から地上4階までの各階に中央廊下と南北2室を設けた。地階は倉庫として使用し、地上階の各部屋に壁付片面書架を2列、両面書架を6列並べた。ただし1階南側の部屋は当初教職員用の書庫内閲覧室として使用されていた[15][16]。書庫の収容力は20万冊とされたが[17]、将来的に中央廊下を延長して書庫を増築することが可能な設計が当初からなされていた[18]

大階段踊り場北面の大窓にはステンドグラスを設置する計画だったが、開館当初は板ガラスであった。1915年(大正4年)12月30日に和田英作原画、小川三知制作の色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれた。これは高さ約3間半、幅1間半の大作で、甲冑姿の武士が馬を降りて自由の女神と相対する図案に、ラテン語で Calamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)と記されていた[19]

開館時の図書館脇には旧島原藩邸時代の黒門が建っていた。長い年月を経て倒壊の危険が生じたため、1913年(大正2年)9月に石柱鉄扉の西洋式の門に改められた。これがのちに「幻の門」と呼ばれることとなる[20][21]


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