慶光院
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この項目では、伊勢国にあった寺院について説明しています。慶光院と呼ばれた江戸時代の皇族については「閑院宮典仁親王」をご覧ください。

慶光院


所在地三重県伊勢市宇治浦田1丁目1番29号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度27分50秒 東経136度43分22秒 / 北緯34.46389度 東経136.72278度 / 34.46389; 136.72278座標: 北緯34度27分50秒 東経136度43分22秒 / 北緯34.46389度 東経136.72278度 / 34.46389; 136.72278
宗旨臨済宗
創建年室町時代
開山心鏡守悦
中興行屋清順
正式名神護山慶光院
文化財重要文化財:神宮祭主職舎本館(旧・客殿)
勝手所
表門

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慶光院(けいこういん)は伊勢国(現在の三重県伊勢市)にあった臨済宗寺院山号は神護山[1]。廃寺ののち、神宮祭主職舎として使われている。目次

1 概略

2 歴史

2.1 近代


3 歴代住持

4 文化財など

4.1 本館

4.2 勝手所

4.3 表門

4.4 慶光院文書


5 注釈

6 脚注

7 参考文献

8 外部リンク

概略

臨済宗の寺院ではあったが本山を持たない単立寺院で、『勢陽五鈴遺響』によれば慶光院には仏像梵鐘も無かったとされるが[2]、『閑際隨筆』(山神舎人守冑)の「慶光院住職之次第」や『元文五年神社寺院改帳』によれば本尊は「釈迦弥陀」[注釈 1]で境内には観音堂と弁財天堂、鎮守天神社があったと伝わり[3]、『神宮興略』には本尊は薬師如来であったとの記述があるという[3]

寺は当初、山田西河原(現在の伊勢市宮後)にあったが、慶長年間(1596年 - 1615年)に宇治に僧房を構えた際、3世清順が居室に許された「慶光院」の号を正式な寺の名とした。[2]

江戸時代には主に朝廷将軍家などの依頼による祈祷を行なっていたとも[4]、天下泰平の祈祷を行って祈祷札を領していたともされるが[5]明治2年に伊勢にあった100ヶ所以上の寺院とともに廃寺となった[6]
歴史

室町時代の創建とされる尼寺で、寺伝によれば永和2年(1376年)ごろに周徳と言う人があって、そののちに断絶していたのを守悦が中興したとされ[5]、この事から守悦は初世とされる。

守悦は飛鳥井家出身の人物と伝わっており、飛鳥井雅俊からの書状が現存している[7]。守悦は勧進を行なって延徳3年(1491年)と永正2年(1505年)の2度に渡る宇治橋の架け替えに尽力した功績により、上人号紫衣を許された[8]

2世智珪については堂上家の出身とされるが、家名も判らず事蹟も不明。守悦の弟子として紀州に在住し、天文15年(1546年)に熊野で没した。[9]

戦国時代の3世清順(? - 永禄9年4月3日1566年4月22日))も勧進によって天文18年(1549年)に宇治橋の架け替えを実現したことで、天文20年に後奈良天皇からその居室に対して「慶光院」の綸旨を賜った[10]。更に清順は100年余に渡って途絶えていた伊勢神宮正遷宮復興のため多くの戦国大名などに働きかけ、永禄6年(1563年)には豊受大神宮(外宮)の正遷宮を129年ぶりに実現したが、その3年後に入寂した。

4世の周養は師・清順の意志を継ぎ、続いて皇大神宮(内宮)の正遷宮を行なうことを目指して勧進を行ない、天正3年(1575年)に内宮の仮殿遷宮に漕ぎ着けた[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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