慰安所
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、日本の慰安所について説明しています。他国の慰安所については「軍用売春宿」を、日本の慰安所で将兵の相手をした女性については「日本の慰安婦」をご覧ください。

慰安所(いあんじょ)は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本国内(朝鮮地域や台湾を含む)で娼妓取締規則[1]等で所轄の警察署が管理できない軍政地域や戦闘地域の売春宿を旧日本軍が代わりに軍規則[2]等により管理した売春宿のこと[要出典][3]。売春宿の婉曲な名称として戦時中戦後の一時期に、市中の売春宿、炭鉱鉱山に設置された女郎屋や、日本以外の国の軍用売春宿にも用いられることがある。
概略

「慰安所」とは、例えば、1920年代に当時の衆議院議長が、国立公園について「(京阪神大都市)数百万の市民の慰安所」などと述べたように[4]、本来は「憩いの場」を意味する日本語の表現であるが、戦時中(日中戦争-太平洋戦争)から日本軍の公式売春宿(軍用売春宿)を指す言葉として使われるようになった。

もともと日本軍には、各国の軍隊同様、食堂遊技場劇場といった将兵に慰安を供する為の「慰安施設(福利厚生施設)」があったが[5]、こうした慰安施設の一つとして、上海事変の頃から、公式の売春宿が置かれるようになり[6]、これが慰安所と呼ばれるようになった。よって「特殊慰安施設」という呼ばれ方もされた[7]:22。慰安所という呼び名は、正式なものではなく、実際には様々な名称で呼ばれていた(後述)。

日本軍にいわゆる慰安所[注釈 1]が初めて設置されたのは、1932年の上海事変の時だったとされる。最初に海軍が設置し、陸軍でもこれに倣い、上海派遣軍参謀副長の岡村寧次が、長崎県から女性を呼び慰安所を開設した[8][9]

慰安所は、日本軍の酒保の延長として存在した。1937年に改定された野戦酒保規程に「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」という下りがあり、これが慰安所設置の法令根拠とされる[10]。慰安所の開設は軍の要請により、軍人の住民に対する不法行為、性病の防止、防諜の必要性などから設置された[11]

軍事史家の藤田昌雄によれば、軍が直接慰安所を設置するケースは稀で、部隊出入りの御用商人に依頼して開設することが殆どだったという。あるいは、現地にあった遊興施設を軍が借り上げ、軍の指導の下で指定業者が経営した[12]

漢口特殊慰安所[13]の著者長沢健一氏によると、漢口に於いては朝鮮人のキャンプフォロワー、一般客用の売春宿の売春婦、日本の遊郭の代理人の募集に応じた売春婦を集めて特殊慰安所とした。

将兵は軍政に部隊責任者が届け出た日に時間を割り当てられ、軍兵站部を通じて軍政から支給された花券で利用した[要出典][14]

戦地では、指定業者以外の売春宿や私娼の利用は、防諜と衛生面の見地から厳禁とされた[15]

最近では、日本以外の国が公認あるいは黙認した軍用売春宿も慰安所と呼ばれる[16]:210[17]:1。ただし、日本以外では単に(軍用)売春宿と呼ぶか独自の俗称で呼ばれており、「慰安所」とは、あくまでも日本独自の呼び方である。日本から独立した韓国では、「慰安所」や「慰安婦」の呼称が引き続き用いられた[18]。(日本以外の国の実例については、「軍用売春宿」を参照)

第二次大戦後の日本において、米軍を中心とした進駐軍の為に設置された売春宿も、慰安所と呼ばれる(詳細は「特殊慰安施設協会」を参照)。 慰安所の入口。「聖戦大勝の勇士大歓迎」「身も心も捧ぐ大和撫子のサーヴイス」と書かれている。 上海の日本軍慰安所であった建物

戦時中に炭鉱鉱山で働いていた朝鮮人労務者中国人労務者の為に企業が設置した売春宿を「(産業)慰安所」と呼ぶこともある[19]:40-47[20][21]
名称

1932年に初めて作られた陸軍公認の売春施設の名称は、「軍娯楽所」だった[22]

慰安所の他に「軍人倶楽部」という呼び方もあった[注釈 2]

外務省の公電などには「軍慰安所」と書かれているものもある[25]。「特殊慰安所」[注釈 3]や「特殊慰安施設(慰安所)」[7]:22と記載されている資料もある。商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた小野田寛郎は、1939年に漢口の日華区で「漢口特殊慰安所」という看板を掲げた慰安所を目撃している[26]:143。

軍人には「ピー屋」とも呼ばれた。ピーとは、英語のprostitute(売春婦)の略、あるいは中国語で女陰を表す言葉などと言われている[24]:68[27]:178。

当時の慰安所の管理人の日記を分析した崔吉城によれば、関係者の間の会話では、〇〇楼や〇〇倶楽部などという固有名が主に使われていたという[28]:162
歴史
前史・軍と遊郭

日本には、1930年代に戦地に登場する「慰安所」とは異なるが、実態としてはそれに近いものが、それ以前から存在していた[29]

西洋式に近代化した日本では、西洋型の公娼制度を取り入れつつ、陸軍の衛戍地や海軍の軍港の近くに遊郭が作られ[注釈 4]日清日露戦争を通じ両者は不可分な存在となって行った[注釈 5]。軍隊を誘致すればインフラや地域経済の活性化が期待できたので、日本各地で師団歩兵連隊の誘致合戦が繰り広げられ、同時に、商機や税収を狙い、軍隊を当て込んだ公娼設置運動が展開された[29]

こうした遊郭は、軍隊ではなく、地方自治体と警察の監督下にあった(「娼妓取締規則」)。

日本統治下の朝鮮や台湾にも公娼制度が導入され、港湾や日本軍の駐屯地の近くに遊郭が新設され、需要を当て込んだ売春業者や売春婦が、内地から朝鮮半島へ渡って行った。当初こうした遊郭で働く女性の多くは日本人だったが、やがて朝鮮人女性の数も増加した[30]:1-27。こうした遊郭や娼婦は、厳密には「慰安所」や「慰安婦」とは別物だが、軍都として建設された都市(龍山鎮海など)の遊郭は、慰安所的な性格を帯びていたと語る研究者もいる[32]。これらの遊郭の一部は、第二次大戦後、米軍の「基地村」となった[33]:103。

戦時中は、こうした国内(朝鮮半島・台湾を含む)の遊郭の関係者が、慰安所の経営者などとして戦地へ赴いた。国内の売春宿が、戦地に支店(慰安所)を出すケースもあった[34]
「慰安所」の誕生


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:121 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef