慧遠
咸和9年 - 義熙12年8月6日
(334年 - 416年9月13日)
廬山の慧遠・『晩笑堂竹荘畫傳』より
生地雁門郡楼煩県
没地廬山
寺院上明寺、西林寺、東林寺
師釈道安
著作『大乗大義章』『沙門不敬王者論』
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慧遠(えおん)は、中国の東晋時代、廬山に住んだ高僧。同名の隋代の慧遠と区別して廬山の慧遠とも呼ばれる。俗姓は賈氏。中国仏教史の重要人物の一人。 雁門郡楼煩県(山西省忻州市寧武県)出身の人である。21歳の頃に釈道安の元で出家した。道安に随って各地を転々としたが、襄陽に住した時に前秦の苻堅が侵攻し、道安を長安に連れ去ったため、慧遠は師と別れて南下し、荊州上明寺に移った。 その後、尋陽郡柴桑県に至って廬山に入り、西林寺、のち東林寺に住した。それ以後30年余り、慧遠は一度も山を出なかったという。この事実を踏まえて創作された「虎渓三笑」の話が知られる。 隆安5年(401年)、鳩摩羅什が関中に入り国師として後秦の都長安に迎え入れられると、慧遠は鳩摩羅什と往復書簡を交わし、新出の経典についての疑問点等をただした。その書簡集が『大乗大義章
生涯
元興元年(402年)、慧遠は同志123名と廬山山中・般若台の阿弥陀仏像の前で、念仏実践の誓願を立てる。これによって、慧遠は白蓮社の祖と仰がれることとなる。ただし、慧遠の念仏行は、後世の浄土三部経に基づく称名念仏とは異なり、『般舟三昧経』に基づいた禅観の修法であった。
さらに、当時、廬山を含む長江中流域の覇者であった桓玄に対して、仏法は王法に従属しないことを正面きって説いたのが『沙門不敬王者論』である。
持戒堅固な慧遠は戒律の整備にも努め、『十誦律』の翻訳及び普及に尽力した。
著書
『沙門不敬王者論』
『法性論』
『釈三報論』
『大智度論抄』
『大乗大義章』
訳経
『阿毘曇心論』(僧伽提婆と共訳)
伝記資料
『出三蔵記集』巻15「慧遠法師伝第三」
『高僧伝』巻6「晋廬山釈慧遠伝」
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思想・基本教義
「浄土三部経」(『仏説無量寿経』 曹魏康僧鎧訳 / 『仏説観無量寿経』 劉宋?良耶舎訳 / 『仏説阿弥陀経』 姚秦鳩摩羅什訳)
『般舟三昧経』 支婁迦讖訳
関連人物
【インド】釈尊 | 十大弟子 | 龍樹 | 天親
【中国】廬山の慧遠 | 曇鸞 | 道綽 | 善導 | 懐感 | 少康
【日本】空也 | 良源 | 慶滋保胤 | 源信 | 永観 | 良忍 | 珍海 | 覚鑁 | 源空(法然) | 隆寛 | 弁長 | 親鸞 | 証空 | 一遍 | 覚如 | 蓮如 | 良寛 | 小林一茶 | 清沢満之 | 山崎辨榮 | 鈴木大拙 | 曽我量深 | 金子大栄 | (妙好人)