慕容?
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文明帝 慕容?
前燕
初代王
王朝前燕
在位期間
咸康3年10月14日 - 永和4年9月17日
337年11月23日 - 348年10月25日
都城龍城
姓・諱慕容?
字元真
小字万年
諡号文明皇帝
廟号太祖
生年元康7年(297年
没年永和4年9月17日
348年10月25日
慕容?
母段夫人
陵墓龍平陵

慕容 ?(ぼよう こう、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Murong Huang)は、五胡十六国時代前燕の初代王。は元真[1]小字(幼名)は万年。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の人。鮮卑慕容部の大人(部族長)で、慕容?の三男。兄に慕容翰、弟に慕容仁慕容昭慕容評らがいる。
生涯
慕容?の時代
慕容?の世子

元康7年(297年)、慕容部の大人(部族長)である慕容?と段夫人(段部単于の娘)との間に生まれた。兄に慕容翰がいたが、彼は庶子であったため慕容?が世継ぎとして見做されていた。

建武元年(317年)、東晋朝廷より冠軍将軍[2]に任じられた。当時、慕容部は実態としては独立勢力であったが、名目上は東晋に従属する立場であり、その傘下の地方政府という位置づけであった。その為、東晋より任官を受けている。

大興4年(321年)12月、慕容?が東晋朝廷より遼東公に冊封されると、慕容?は世子諸侯の後継ぎ)に立てられ、名実ともに慕容?の後継者として認められた。慕容?は、儒学に精通していた平原出身の劉賛を東庠祭酒(東庠とは皇太子の学校、祭酒とは学政の長官を意味する)に抜擢し、慕容?は重臣の子弟らと共に彼から講義を受けるようになった。

永昌元年(322年)、左賢王を拝命し、望平侯に封じられた[3]

咸和元年(326年)、東晋朝廷より平北将軍に任じられ、朝鮮公に進封した。
戦功を立てる

彼は将軍としての才覚があり、成長するや自ら兵を率いて征討に出るようになり、幾度も功績を立てたと史書には記録されている。以下、慕容?の時代に記録されている戦功について列挙する。

大興2年(
319年)12月、宇文部の大人宇文遜昵延が数10万を率いて本拠地の棘城に襲来すると、慕容?は長史裴嶷と共に精鋭を率いて迎撃軍の先鋒となって出撃し、慕容?が大軍を率いて後続した。宇文遜昵延は全軍を挙げて迎え撃ったが、城外で別動隊を率いていた庶兄の慕容翰はこの隙を突いて宇文遜昵延の陣営へ突入した為、挟み撃ちを食らった宇文部軍は大混乱に陥って大敗し、宇文遜昵延は体一つで逃げ出した。これにより敵兵のほとんどを捕虜とし、更に宇文部に代々伝わる「紐の玉璽」を手に入れた。


永昌元年(322年)12月、段部の本拠地である令支へ侵攻し、千家余りの民と名馬や宝物を略奪してから帰還した。


太寧3年(325年)1月、宇文部の大人の宇文乞得亀が自ら軍を率いて慕容部へ襲来すると、慕容?は迎撃軍の総大将を任せられ、軍の右翼に裴嶷が、軍の左翼に同母弟の慕容仁が配置された。宇文乞得亀は澆洛水(現在のシラムレン川)沿いに布陣すると、兄の宇文悉跋堆に左翼の慕容仁を攻撃させたが、慕容仁が返り討ちにして宇文悉跋堆を討ち取った。慕容?はこれに呼応して宇文乞得亀の本隊に攻撃を仕掛けて大勝を挙げると、敵軍は総崩れとなり宇文乞得亀は軍を捨てて逃亡を図ったので、慕容?らは進軍を続けてそのまま宇文部の都城へ侵入した。同時に軽騎兵を派遣して逃亡した宇文乞得亀を追撃させ、3百里余りを追い立てた所で引き返した。この戦勝により金品宝玉を多数獲得し、捕らえた家畜は百万を数えた。また、慕容部に帰順した人民は数万にも上った。

位を継ぐ

咸和8年(333年)5月、慕容?が病没した。6月、大人位を継承した慕容?は、平北将軍・行平州刺史[4]の地位を根拠として部内の代行統治に当たった[5](慕容部は名目上は東晋朝廷の平州における地方政府であった為、国内を纏めるには根拠となる役職が必要だったのである)。

また、領内に大赦を下し、長史[6]裴開を軍諮祭酒に、郎中令高?玄菟郡太守に任じた。また、帯方郡太守王誕を左長史に任じようとしたが、その王誕は遼東郡太守陽?の方が自分より優れていると勧めたので、陽?を左長史に抜擢し、代わりに王誕を右長史に任じた(左長史の方が右長史より高位である)。

同月、長史王済らを建康へ派遣し、東晋朝廷へ父のを報告させた。
前燕の建国
慕容仁の反乱
兄弟間の対立

慕容?の庶兄の慕容翰・同母弟の慕容仁は、いずれも勇猛にして優れた才略を持ち、幾度も戦功を立てて士卒からの信頼を得ていた。その弟の慕容昭もまた優れた才能があり、みな慕容?から寵愛を受けていた。その為、慕容?は彼らに対して日頃より不平不満を抱いており、兄弟の仲は昔から芳しくなかったが、慕容?が後を継いだ事によってその問題が表面化する事となった。

咸和8年(333年)10月、慕容翰は慕容?から禍いを受ける事を恐れ、自らの息子を引き連れて段部へ亡命してしまった。

また同月、慕容仁は慕容?の葬儀に参列する為に駐屯地の平郭から棘城へ赴いたが、彼もまた慕容?に誅殺されるのではないかと心中恐れており、それは棘城内で暮らしている慕容昭も同じであった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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