慕容?
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幽帝 慕容?
前燕
第3代君主(2代皇帝)
王朝前燕
在位期間
光寿4年1月25日 - 建熙11年11月6日
360年2月27日 - 370年12月10日
都城?
姓・諱慕容?
字景茂
諡号幽皇帝
廟号無
生年永和6年(350年
没年建元20年(384年
慕容儁(第3子)
景昭皇后可足渾氏
后妃可足渾氏(中国語版)
年号建熙 : 360年 - 370年

慕容 ?(ぼよう い、?音:Murong W?i)は、五胡十六国時代前燕の第3代にして最後の君主。は景茂。慕容儁の三男であり、生母は可足渾氏。兄に慕容曄慕容臧が、弟に慕容亮・慕容温・慕容渉慕容泓慕容沖が、妹に清河公主がいる。
生涯
父の時代

永和6年(350年)、前燕の二代君主(初代皇帝)慕容儁の三男として生まれた。元璽3年(354年)4月[1]、中山王に封じられた。

元璽6年(357年)2月、前年7月に兄の皇太子慕容曄が早世したことに伴い、新たな皇太子に立てられた(慕容?にはもう一人兄の慕容臧がいたが、彼は庶子であった為、後継とならなかった)。

光寿4年(360年)1月、慕容儁が病により崩御した。慕容?はこの時まだ11歳と幼かったので、群臣は慕容儁の弟である太原王慕容恪に後を継ぐよう勧めたが、慕容恪はこれを固く辞退したので、予定通り慕容?が継ぐこととなった。
皇帝即位

慕容儁崩御から数日後、慕容?は皇帝に即位した。領内に大赦を下し、建熙と改元した。建熙元年(360年)2月、実母の可足渾氏を皇太后に立てた。また、慕容恪を太宰録尚書事に、上庸王慕容評太傅に、慕輿根太師に任じた。

太師の慕輿根は慕容?の時代からの功臣であったが、自らを差し置いて国政を掌握している慕容恪に不満を抱いており、武衛将軍慕輿干と結託して密かに政権の掌握を目論んでいた。彼はまず慕容恪に帝位の簒奪を勧めて接近し、これを慕容恪が断ると今度は慕容?と可足渾氏の下へ出向き、慕容恪と慕容評が謀反を企てていると嘘の訴えを行い、討伐の許可を求めた。可足渾氏はこれを信用して許可しようとしたが、慕容?は「二公(慕容恪・慕容評)は国家の親賢(親族の賢臣)です。先帝(慕容儁)により選ばれ、孤児と寡婦(慕容?と可足渾氏)の補佐をしてくれているのです。必ずやそのような事はしません。それに、太師(慕輿根)こそが造反を考えているのでないとも限らないでしょう!」と反対したため、取りやめとなった。その後次第に慕輿根の反心が明らかとなると、慕容恪は遂に誅殺を決め、慕容評と協力して慕輿根を捕らえ、妻子や側近ともども処刑した。
勢力の拡大

かつての後趙の残党である張平并州の全域を支配し、一時は前燕・前秦に匹敵する第3勢力となっていた。慕容?の治世になると張平は前燕に侵攻し一定の成果を得たが、その直後に前秦から攻撃を受けたため、再び前燕に謝罪して救援を要請した。だが前燕は救援を拒否したため、張平は前秦軍に敗れて殺された。

また野王に割拠していた呂護は名目上前燕の臣下であったが、彼は密かに東晋へも帰順しており、前将軍冀州刺史に任じられていた。また、後趙の残党であり?陽に割拠していた高昌が同年に死去すると、呂護は彼の領する兵民も傘下に加え、その勢力を強大化させていた。呂護は東晋軍を招き入れ、共に前燕の首都の?を強襲せんと目論んでいた。しかし呂護の計画が露見すると、慕容恪が5万の兵を率いて呂護討伐に赴き、数か月に渡る包囲戦の末、直接戦闘にて多数の将兵を討ち取り、呂護を敗走に追い込んだ。その後呂護が前燕に謝罪して再び帰順を請うと、慕容?はこれを受け入れ、広州刺史[2]・寧南将軍に任じて以前通りに遇した。

建熙3年(362年)1月、豫州刺史孫興は上表して「晋将陳祐は弱兵1000余りで孤立した城(洛陽)を守っております。取らない手はありません!」と訴え、東晋の勢力下にあった洛陽を攻めるよう勧めた。洛陽は東晋の大司馬桓温の北伐により、元璽5年(356年)より東晋の支配圏に組み込まれていたが、他の東晋領から孤立した位置に在していた。朝廷はこの訴えを聞き入れ、護軍将軍傅顔・寧南将軍呂護・太宰慕容恪らを派遣し、洛陽の金?城(洛陽城の東北にあり、防衛上の拠点となる城)を陥落させた。慕容筑を仮節・征虜将軍・洛州刺史に任じて洛陽の金?城を守らせ、慕容垂を都督荊揚洛徐?豫雍益涼秦十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧に任じ、兵1万を与えて魯陽を鎮守させた。

建熙4年(363年)4月には、寧東将軍慕容忠?陽を陥落させた。しかし10月には鎮南将軍慕容塵が東晋の陳留郡太守袁披の守る長平を攻撃したが、東晋の汝南郡太守朱斌[3]がその隙に乗じて許昌を陥落させてしまった。そのため翌年の建熙5年(364年)、太傅慕容評・龍驤将軍李洪らが許昌・汝南へ侵攻し、東晋の汝南郡太守朱斌・陳郡太守朱輔らを退却させ、これにより許昌・汝南・陳郡を攻略した。
国内の統治

建熙7年(366年)3月、当時前燕国内では水害や旱魃が多発していた。これを受け、慕容恪は慕容評と共に進み出て慕容?へ稽首し、太宰・大司馬・太傅・司徒の地位を返上して邸宅に帰ることを願い出た。慕容?は未だ東晋・前秦の脅威が残っており、今は職を辞す時では無いとして訴えを退けた。慕容恪・慕容評らはなおも政権を返上する事を請うたが、慕容?は再度反論し、ついに2人が提出した辞表を破り捨てた。これにより慕容恪・慕容評らも引退を断念した。同年5月、慕容?は依然として旱魃が終わらない状況を憂え、下書して歌舞音楽を撤廃し、高官に菜食の徹底と捧げ物の用意を欠かさぬよう命じた。その後、程なくして大雨が降り、旱魃は解消されたという。

建熙8年(367年)4月、慕容恪は病を患うようになると、慕容?へ「呉王垂(慕容垂)の将相(将軍と宰相)の才覚は臣に十倍します。先帝(慕容儁)は幼長の序列を重視して臣を先に取り立てたに過ぎません。臣が死んだ後は、どうか国を挙げて呉王を尊重なさって下さい」と進言し、慕容垂に重任を委ねるよう伝えた。5月に慕容恪は没したが、以降は慕容評と可足渾皇太后が国政を担うようになった。
前秦との駆け引き

建熙8年(367年)、前秦の君主苻堅は慕容恪の死を聞き、前燕を併呑しようと密かに画策し、まずは前秦の傘下にあった匈奴左賢王曹轂に、朝貢を名目として前燕へ赴くよう命じ、前秦の西戎主簿郭弁をその付き人という扱いで同行させ、郭弁に密かに内情を探らさせた。


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