慕容恪
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慕容 恪(ぼよう かく、生年不詳[1] - 367年5月)は、五胡十六国時代前燕政治家武将である。は元恭。鮮卑慕容部の出身であり、昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の人。慕容?の四男で、兄に慕容儁、弟に慕容垂慕容徳がいる。母は貴人の高氏。数多の戦役で勝利を収め、前燕の中原進出に大きく貢献した。後年には宰相としても国家を支え、全盛期を築き上げた。後世の人より五胡十六国随一の名将であると評される[2]
生涯
慕容?の時代
頭角を現す

前燕の初代君主慕容?と貴人高氏との間に生まれた。

高氏は慕容?から寵愛を受けていなかった為、当初は慕容恪自身も父より目を掛けられていなかった。だが、15歳になるとその才覚を認められるようになり、将来を期待されて孫子呉起の兵法を授かった[3]。また、1軍の将として征伐にも従軍するようになり、やがて盪寇将軍に任じられた[4]

咸康4年(338年)5月、後趙の君主石虎が数十万といわれる大軍を前燕に侵攻させ、本拠地の棘城を包囲した。後趙軍は四方から一斉に攻撃を開始したが、慕輿根らの10日余りに渡る奮戦により攻略を諦めて退却を始めた。慕容恪は夜明けと共に胡人の騎兵2千を諸門から一斉に出撃させると、撤退する後趙軍に奇襲をかけた。後趙の諸軍は大いに驚き、みな甲を脱ぎ捨て遁走してしまった。慕容恪はこれに乗じて追撃を掛け、後趙軍を大敗させて3万を超える兵を討ち取るか生け捕りにした[5]。その後、凡城(現在の河北省承徳市平泉市の南)を築いて守備兵を配置してから帰還した[6]

同年12月、密雲山に潜伏していた段部の首領段遼(同年1月に段部は後趙軍の侵攻により滅亡し、段遼は密雲山に逃走していた)が、後趙へ使者を派遣して降伏を申し入れると、石虎はこれを受け入れて征東将軍麻秋に3万の兵を与えて段遼を迎えに行かせた。だが、この降伏は偽りであり、段遼は密かに前燕にも降伏の使者を派遣していた。これを受け、慕容?は自ら軍を率いて段遼を迎え入れると、彼と密謀して麻秋率いる後趙軍を奇襲する事を目論み、慕容恪に7千の精鋭を与えて密雲山に派遣した。慕容恪は密雲山に到達すると三蔵口に伏兵として潜伏し、進軍してきた麻秋の軍に大打撃を与えて兵卒の6・7割方を戦死させた。麻秋は馬を棄てて逃走したが、その司馬である陽裕を生け捕りとした[5]

咸康5年(339年)10月、弟の平狄将軍慕容覇(後の慕容垂)らと共に宇文別部(宇文部の傍系)へ攻め入り、これを破った[5]
遼東を統治

咸康7年(341年)10月[7]度遼将軍に任じられ、平郭の統治を委ねられた。遼東一帯はかつて慕容翰慕容仁の統治により善く鎮まっていたが、彼ら以降の諸将の中でこれに続く者はいなかった。だが、慕容恪が平郭を鎮守するようになると、彼は古くからの民を懐け、また新たに流入してきた民を撫したので、情勢は再び安定するようになった。また、幾度も高句麗の軍を破って大いにその勢威を示したので、高句麗は恐れをなして敢えて攻め入ろうとはしなくなった[3][5]

建元2年(344年)2月、慕容?が宇文部討伐の為に親征を行うと、慕容恪は広威将軍慕容軍・平狄将軍慕容覇・折衝将軍慕輿根らと共に別動隊を率いて三道に分かれて進軍した。宇文部の大人宇文逸豆帰は南羅大渉夜干に精鋭を与えて迎撃を命じたが、前燕軍はこれを返り討ちにして渉夜干を戦死させた。これにより宇文逸豆帰は軍を放棄して漠北へ逃走し、宇文部の勢力は散亡した。この戦勝により前燕は領土を千里余り広げた[8]

永和元年(345年)10月、慕容恪は高句麗へ侵攻すると、南蘇城(現在の遼寧省丹東市振安区五龍山の南)を陥落させた。その後、守宰(郡太守や県令などの地方長官)を設置してから軍を帰還させた[8]
慕容儁の継位

永和2年(346年)1月、世子の慕容儁・広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根と共に1万7千の騎兵を率い、夫余の征伐に向かった。慕容儁は陣中より指示を行うのみであり、戦場での指揮の一切は慕容恪に委ねられた。慕容恪は矢石に身を晒しながら敵の前鋒軍を打ち破り、向かう所敵無しであった。そして勢いのままに夫余を攻略すると、玄王と部落5万人余りを捕らえてから軍を帰還させた[8]

永和4年(348年)9月、慕容?が没し、世子の慕容儁が王位を継いだ。慕容?は臨終の際、慕容儁へ向けて「今、中原は平定されておらず、世務(この世の務め。ここでは中華平定を指す)を図る為には、賢傑(才知が傑出している事)なる人物の助けを得なければならぬ。恪(慕容恪)は智勇共に申し分なく、その才覚は重任に堪え得るものだ。汝はこれに委ね、我が志を果たすのだ」と遺言を残した[9][10]。慕容儁はその言葉に従って慕容恪を重用し、国家の大事を委ねるようになった[11]。慕容恪もまたこの期待に応え、幾度も大功を挙げていく事となる。
前燕の柱石
中原進出

永和5年(349年)4月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに、皇族同士が後継の座を争って殺し合うようになり、中原は大混乱に陥った。前燕の諸将はみなこれを好機として中原へ進出するよう説くと、慕容儁はこれに応じて出征の準備を始め、精鋭20万人余りを選抜し、戒厳令を布いて進出の機会を窺った。

同月、慕容恪は輔国将軍に抜擢され、輔義将軍陽?・輔弼将軍慕容評と共に三輔と称され、来る中原攻略の大遠征軍の中核を任された[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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