慕容?
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慕容 ?[1](ぼよう かい、?音:Murong Gu?、泰始5年(269年) - 咸和8年5月6日333年6月4日))は、鮮卑慕容部の大人(部族長)(在位:285年 - 333年)。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の出身。[2]は?洛?[3]。父は慕容渉帰、兄に慕容吐谷渾、弟に慕容運がいる。遼西遼東地方においてその勢力を拡大させて国家体制を整備し、後に前燕が覇権国家となるための基盤を築き上げた。その為、実質的な前燕の初代君主に数えられる事もある。子の慕容?が燕王に即位すると武宣王と追諡され、さらに孫の慕容儁が帝位に即くと武宣皇帝と追諡され、廟号を高祖とされた。
生涯
大人位を継ぐ

泰始5年(269年)、大人(部族長)の慕容渉帰の子として生まれた。当時の中国は三国時代の終盤に当たり、咸熙元年(264年)に蜀漢によって滅ぼされ、その魏の元帝より禅譲を受けて、武帝司馬炎が晋(西晋)を建国してから4年後であった。

太康4年(283年)、父の慕容渉帰がこの世を去った。この年は晋の武帝がを滅ぼし、中華を統一してから3年後であった。本来は嫡男である慕容?が大人の位を継ぐはずであったが、叔父の慕容耐が位を簒奪してしまい、さらには慕容?の謀殺を目論んだ。慕容?はこれを事前に察知して逃亡を図り、慕容耐の差し向けた刺客に追われながらも遼東に住む徐郁という人物の下へ辿り着くと、彼へ庇護を求めた。徐郁は彼を家屋の中に匿うと席の裏側に隠れ潜ませ、追っ手もまた家屋に浸入してその姿を捜索したが、遂に見つけることは出来ずに引き返した。これにより慕容?は難を逃れる事が出来た。

太康6年(285年)、部下の裏切りにより慕容耐が殺害されると、慕容?は部族の民より迎え入れられ、大人の地位を継承する事が出来た[4]
西晋との争い
昌黎を侵犯

元々、慕容部は魏晋朝廷に一貫して従属していたものの、慕容渉帰の時代には自立行動を起こして昌黎郡へ侵犯するようになり、その関係は悪化していた。

また当時、同じ鮮卑族である宇文部は遼西地方において強盛であり、父の慕容渉帰の時代より対立関係にあった。太康6年(285年)、慕容?は父の恨みを晴らそうと考え、西晋朝廷へ宇文部討伐の許可を求めたが、認められなかった。慕容?はこれに怒って遼西へ侵攻すると、多数の人民を殺戮して物資を略奪した。これを受け、武帝は幽州の諸軍を差し向けて慕容?討伐を命じ、慕容?は肥如においてこれを迎え撃つも大敗を喫してしまった。しかし、これ以後も慕容?は連年に渡り昌黎へ襲来しては略奪を繰り返し、晋朝にとって煩いの種となった。
夫余を攻撃

同年、現在の満洲に位置していた夫余国を攻撃し、その都城を攻め落とした。夫余王であった依慮は自害し、その子弟は逃走して沃沮の土地へ逃れ、慕容?は1万人余りを捕虜として帰還した。しかし依慮の子であった依羅は祖国復興のため、西晋の東夷校尉何龕に救援を要請した(東夷校尉とは東方の異民族を管轄する軍政務官である)。何龕はこれに応じて督護賈沈を差し向け、沃沮に拠っていた依羅を保護して故地へ送ってやった。これを察知した慕容?は配下の将軍の孫丁に騎兵を与え、行軍路を阻ませて賈沈を攻撃させたが、孫丁は返り討ちに遭って斬り殺された。

何龕の働きかけにより夫余は復興されたものの、慕容?はその後もたびたび夫余に侵入してはその民衆を捕らえ、中国に売りさばいたという。そのため、武帝は国の資産で夫余の奴隷を買い戻してやり、さらに司州冀州では夫余人の売買を禁止させた。
勢力を拡大
西晋に従属

太康10年(289年)4月、慕容?は側近との協議の上、西晋への帰順を決断した[5]。そして朝廷へ帰順の使者を派遣すると、武帝はその到来を喜んだという。5月、慕容?は鮮卑都督[6]に任じられた。太熙元年(290年)、晋の武帝は没し、その嫡子の恵帝が新たに皇帝へと即位した。

同年、拠点としていた遼東の北部が僻地であった事から、慕容?は遼西へ移住し、徒河の青山(現在の遼寧省錦州市義県の東)を根拠地とした[7]

元康4年(294年)、再び移住し、棘城[8](現在の遼寧省錦州市義県の西)を拠点とした。この時期より農業と養蚕に力を注ぐと共に、中国と同じ法律や制度を整え、その勢力基盤を固めていった。

この頃、晋の朝廷は後に八王の乱と称される権力闘争の真っ只中で、地方でも反乱が多発するようになっており、晋朝による統治機構は機能不全に陥りつつある状況であった。

永寧元年(301年)から永寧2年(302年)頃[9]、燕の地方(幽州一帯)で大洪水が発生した。これを受け、慕容?は倉を開放し、幽州の人民へ食糧を支給して救済に努めた。これにより恵帝より大いに称賛され、命服(官僚がその等級に応じて着用する礼服)を下賜された。

この頃、いずれも優れた性格や才覚を持っていると評されていた慕輿句と慕輿河[10]を取り立て、慕輿句には府庫[11]の管理を任せ、慕輿河には訴訟の裁決を任せた。

一方、晋朝の混乱は頂点に達しており、太安元年(303年)には蜀の地にて巴?族の李雄成漢)が、永安元年(304年)には河北で匈奴族の劉淵(後の前趙)がそれぞれ独立し、こうした情勢の中で光熙元年(306年)には恵帝が死亡、新たに異母弟の司馬熾が皇帝に擁立された(懐帝)。

永嘉元年(307年)、慕容?は鮮卑大単于を自称し、数多いる鮮卑の諸部族の中でも自らがその頂点であると内外へ標榜した(単于とは主に匈奴族で用いられている君主号であり、かつては父の慕容渉帰も西晋朝廷より賜った称号であった)。

永嘉5年(311年)、前趙の攻勢により遂に洛陽が陥落して懐帝が捕らわれの身となり、西晋による全国統治は完全に崩壊した。これ以降、幽州に割拠する王浚は自らの独断で承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)を行うようになっていた。慕容?もまた王浚より散騎常侍・冠軍将軍・前鋒大都督・大単于に任じられたが、皇帝からの命令で無かったためこれを受けなかった。

建興年間(313年から317年)、長安で即位した愍帝より使者が到来し、慕容?は鎮軍将軍に任じられ、昌黎・遼東の二国公に封じられた。
周辺諸部族との抗争・修好

西晋への従属を決断して以降、その庇護を得た慕容?の威徳は日を追う毎に広がっていったので、同じ鮮卑族であり遼西地方に勢力基盤を築いていた宇文部や段部は、併呑されるのを次第に恐れるようになり、絶えず慕容部の領土を侵攻・略奪するようになった。慕容?は彼らと対立を避けるため、使者と交流する際には礼儀正しく謙虚に振る舞い、手厚い贈り物をして関係改善に努めたという。

以下、西晋健在時の周辺諸部族との間で起こった抗争や修好関係について記す。
宇文部を撃退

永寧2年(302年)、宇文部の単于の
宇文莫珪は弟の宇文屈雲や同族の宇文素延[12]を派遣し、宇文屈雲には慕容部の領土周辺へ侵攻させ、宇文素延には慕容部に従っていた諸部族を攻撃・略奪させた。慕容?は自ら軍を率いて出撃すると、宇文素延を迎撃してこれを撃ち破った。


同月、敗戦を大いに恥じた宇文素延は雪辱を期して再び慕容部へ攻め入り、10万の兵を率いて棘城を包囲した。これに城内の民はみな震え上がったが、慕容?は「宇文素延の軍は数こそは多いが統制が取れていない。諸君らはただ力戦すればよい。憂えることなど何も無い!」と鼓舞し、そして自ら出撃して宇文素延の軍を再び大破した。さらに敗走する敵軍を百里に渡って追撃し、捕縛とするか討ち取った者は1万人を超えた。元々宇文部の傘下であった遼東の豪族の孟暉は今回の敗戦を受け離反し、自らが従えていた数千家を引き連れて慕容?に帰順すると、慕容?は彼を迎え入れて建威将軍に抜擢した。

拓跋部との修好

永嘉元年(307年)、代の地方において勢力を拡大していた
拓跋部の大人の拓跋禄官がこの世を去り、拓跋猗盧が後を継いだ。彼らもまた慕容部と同じ鮮卑族であるが、拓跋禄官の時代(295年から307年頃)に、慕容?は東部拓跋部(この当時拓跋部は西・中・東の3部に分かれていた)へ侵攻して各地を荒らし回った事があり(最終的には拓跋部の拓跋普根に攻撃を受けて撤退した)、これもあって両者の関係はかねてより良好とは言えなかったが、拓跋猗盧の時代になると次第に両者は接近し、修好を深めるようになっていった。

素喜連・木丸津を討伐

永嘉3年(
309年)、遼東の辺境に割拠していた鮮卑族の素喜連と木丸津は晋朝に反乱を起こし、連年に渡り遼東の諸県を侵略して殺戮と略奪の限りを尽くすようになった。現地の農民達はまともに生活する事が出来ず、慕容?の領内には日を追う毎に多くの民衆が流入するようになった。慕容?は流民達に備品や食料を支給し、郷里へ帰る事を望む者は送り届けてやるなど、彼らの慰撫に努めた。


永嘉5年(311年)12月、庶長子の慕容翰の献策(慕容翰は、素喜連・木丸津を討伐する事で晋への忠義を示しつつ、その兵力の吸収を図るよう進言した)に従い、慕容?は素喜連・木丸津討伐の兵を挙げた。東へ向けて進撃すると、慕容翰を討伐軍の前鋒に据えて敵軍を大破し、素喜連・木丸津を討ち取った。こうして両部族の民を尽く降して3千家余りを傘下に引き入れると、彼らを棘城に移住させ、さらに遼東郡を設置してから軍を返した(当時、既に洛陽は陥落して懐帝は捕虜となっており、西晋の支配体制は完全に崩壊していた。


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