慕容 吐谷渾(ぼよう とよくこん、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Murong T?yuhun、245年 - 317年)は、吐谷渾の建立者である。鮮卑慕容部の人。父は慕容渉帰。異母弟は慕容?。 正始6年(245年)、鮮卑大人である慕容渉帰の長男として生まれた。 庶子(側室の子)であったので後継には立てられず、父の死後は嫡男である慕容?が大人の位を継ぎ、その部衆を統率した。ただ、慕容吐谷渾は父が没する前に1700戸[1]を既に分け与えられていたので、慕容吐谷渾と慕容?で分割統治される形となった。 その後、慕容吐谷渾と慕容?は共に馬を牧して生活していたが、ある時両者の馬が喧嘩して怪我をしてしまった。慕容?はこれに怒って直ちに使者を派遣すると「先父の命により部族を分けたというのに、どうして遠くに離れなかったのか。それ故に馬が争うことになったではないか!」と叱責した。これに慕容吐谷渾もまた怒って「馬とは所詮家畜であり、草を食んで水を飲み、春になれば争うのが習性である。どうして馬の争いで人が怒ろうか!もし遠く別れたいというのであればそれは容易な事である。このまま留まって後で難が起こる方が恐ろしい事だ。我は汝から万里の彼方へ去るとしよう」と述べ、自らの部衆と馬を率いて西へ移動を開始した。 日に80里進み、数日が経った頃、慕容?は後悔して父の代から仕える老臣や長史乙那楼馮
生涯
こうして郷里に別れを告げて西へ向かうと、陰山に移り住むようになった。ある時、部落の者たちへ「我ら兄弟の子孫は共に栄えるであろう。?は子から曾孫・玄孫に至るまで100年余り続き、逆に我の子孫は玄孫の代になってから名を馳せるであろう」と語ったという。
やがて永嘉の乱が起こると、難を避けて西の隴山を越え、枹罕の地に留まった。
建興5年(317年)、齢72で亡くなったという。慕容吐谷渾には子が60人おり、長男の吐延が後を継いだ。その子孫は西零の西の甘松(現在の甘粛省テウォ県)に移り住むようになり[3]、城郭には居住せずに遊牧生活を送ったが、その一方で漢人の制度に倣って長史・司馬・将軍の官職を設置し、また文字を理解していたという。後代には慕容吐谷渾の名を称え、これを国名とした。
慕容?は兄を追慕し、阿干の歌(遼西では兄の事を阿干と呼んだ)を作った。彼の子孫が帝を称すると、国家の歌として用いられるようになったという。
参考資料
『晋書』巻97 列伝第67 四夷
『魏書』巻101 列伝第89 吐谷渾
『十六国春秋』巻30
『宋書』巻96
脚注^ 『魏書』には700戸とある
^ 史那楼馮・史那?馮・乙那?馮・一那?馮とも。『晋書』・『宋書』・『魏書』・『十六国春秋』でその表記は様々である。
^ 『宋書』・『魏書』によると、慕容吐谷渾の時代にすでに移り住んでいる