慕容儁
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景昭帝 慕容儁
前燕
第2代王(初代皇帝)
王朝前燕
在位期間
永和4年11月26日 - 光寿4年1月21日
349年1月1日 - 360年2月23日
都城龍城→薊→?
姓・諱慕容儁
字宣英
諡号景昭皇帝
廟号烈祖
生年大興2年(319年
没年光寿4年1月21日
360年2月23日
慕容?
文明皇后
后妃景昭皇后
陵墓龍陵
年号元璽 : 352年 - 357年
光寿 : 357年 - 359年

慕容 儁(ぼよう しゅん、?音:Murong Jun)は、五胡十六国時代前燕の第2代王にして初代皇帝。は宣英。小字(幼名)は賀頼跋[1]昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の人。即位当初は燕王を称し(在位:349年 - 352年)、後に大燕皇帝を称した(在位:352年 - 360年)。慕容?の次男であり、弟に慕容恪慕容垂・慕容納・慕容徳らがいる。母は段夫人(段部単于宗女
生涯
慕容?の時代
慕容?の世子

大興2年(319年)、前燕の初代君主慕容?の次男として生まれた。

咸康元年(335年)7月、慕容?により世子(後継ぎ)に立てられた[2]

咸康2年(336年)9月、段部へ侵攻して諸城を攻撃し、大勝を収めてから帰還した。

咸康3年(337年)10月、慕容?が燕王を自称すると(前燕の成立)、同年11月に慕容儁は王太子に立てられた。

咸康7年(341年)7月、東晋朝廷より使者が到来し、慕容?が自称していた燕王の位を正式に認められた。慕容儁もまた、東晋朝廷より仮節・安北将軍・東夷校尉・左賢王に任じられ、多数の武器や軍需物資を下賜された。

建元元年(343年)8月、前軍師慕容評と共に代国拓跋部)へ侵攻したが、代王拓跋什翼?はその部民を従えて別の地へ避難したので、戦うことなく引き返した。

建元2年(344年)、東晋朝廷より再び使者が到来し、慕容儁は使持節・鎮軍将軍に任じられた。

永和2年(346年)1月、度遼将軍慕容恪・折衝将軍慕輿根・広威将軍慕容軍と共に騎兵1万7千を率い、鹿山(玄菟郡から千里余り北にある)を根拠地とする夫余の討伐に向かった。慕容儁は陣中で全体の指示を行い、慕容恪・慕輿根らが前線で鋒を振るった。この戦いで夫余を滅ぼし、夫余の玄王と部落5万人余りを捕らえてから帰還した。
王位を継ぐ

永和4年(348年)8月、慕容?は狩猟の最中に落馬して重傷を負い、その傷がもとで翌月にこの世を去った。死の間際、彼は慕容儁を呼び寄せて後事を託すと共に「今、中原は平定されておらず、世務(この世の務め。ここでは中華平定を指す)を図る為には、賢傑(才知が傑出している事)なる人物の助けを得なければならぬ。恪(慕容恪)は智勇共に申し分なく、その才覚は重任に堪え得るものだ。汝はこれに委ね、我が志を果たすのだ。また、陽士秋(陽?)は士大夫の品行を有し、高潔・忠幹にして貞固があり、大事を託すに足る人物である。汝はこれを善く待遇するように」と遺言した。

11月[3]、父を龍平陵へ埋葬した後、燕王の位(但し東晋から承認は得ておらず、あくまで自称である)を継ぎ、領内に大赦を下した。また、東晋へ使者を派遣して父のを報告した。さらに、弟の慕容友[4]を左賢王に、左長史陽?を郎中令に任じ、その他の文官・武官についても能力に応じて昇進させた。

永和5年(349年)1月、父の治世同様に東晋の元号は用いず、永和5年をもって「元年」[5]と称した(慕容?は永和元年(345年)より東晋の元号を用いるのを止め、自らの即位年を起点とした紀年法を用いていた)。但しこれは東晋との従属関係を否定している訳ではなく、周王朝に従属しながらも独自の紀年法を用いていた春秋時代の諸侯の故事に倣ったものである。当時は君主が死に代替わりすると、紀年法は改められるのが通例であった。以降の記述についても便宜上東晋の元号を併記する事とする。

4月[6]東晋穆帝は謁者陳沈を前燕へ派遣し、慕容儁を使持節・侍中大都督河北諸軍事・幽冀并平四州牧[7]大将軍大単于に任じ、燕王に封じ、承制封拝(皇帝に代わって百官の任用と爵位の授与をする権限)を与える旨を伝えさせた。これらは、慕容?・慕容?の故事に倣ったものであり、慕容儁が正式に後継者として認められたという事である。
中原へ進出
第一次侵攻
侵攻を決断

同年5月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに、皇族同士が後継の座を争って殺し合うようになり、中原は大混乱に陥った。

弟の平狄将軍慕容垂(元々の名は慕容覇であるが、本頁では慕容垂で統一する)・北平郡太守孫興はこの状況を中原進出の絶好機と考え、慕容儁へ上書[8]して後趙征伐を訴えたが、慕容儁はまだ父の喪中であった事から認めなかった。すると慕容垂は任地である徒河(現在の遼寧省錦州市一帯)を離れて自ら国都の龍城を詣でると、直接慕容儁へ出兵を請うた[9]。慕容儁はなおも決断できなかったので、五材将軍封奕を召喚してこの事を尋ねると、封奕もまた慕容垂の意見に全面的に同意し[10]、さらに従事中郎黄泓・折衝将軍慕輿根もまた千載一遇の好機であるとして出征を強く訴えた[11]

慕容儁は群臣の意見が既に一つに纏まっており、自分だけが躊躇しているのを知って大いに笑い、遂に出征を決断した。そして、弟の慕容恪を輔国将軍に、叔父の慕容評を輔弼将軍に、左長史陽?を輔義将軍にそれぞれ任じると、彼ら3人を「三輔」と称し、中原攻略の為の大遠征軍における中核に据えた。また、慕容垂を前鋒都督・建鋒将軍に任じ、出陣に際しては軍の先鋒を委ねんとした。また、精鋭20万人余りを選抜し、戒厳令を布いて進出の機会を窺った。

12月、前涼へ使者を派遣し、協力して後趙を討伐する事を前涼君主張重華へ持ち掛け、盟約を交わした(前燕も前涼も名目上は東晋の藩国である)。

同月、高句麗故国原王は、かつて前燕で東夷護軍を務め、慕容?の時代に高句麗へ亡命していた宋晃を前燕に送還した。慕容儁は宋晃を罪には問わず、名を宋活と改めさせた上で中尉に任じた。
楽安制圧

永和6年(350年)2月、後趙の大将軍冉閔が皇帝石鑑や後趙の皇族を虐殺して政権を掌握すると、自ら?で帝位に即いて国号を「大魏」と定めた(冉魏の建国)。

この混乱を好機と見た慕容儁は遂に計画を実行に移し、三軍を率いて征伐を決行した。まず、慕容垂に2万の兵を与えて東道から徒河へ進ませ、将軍慕輿干[12]に西道から??塞(現在の北京市昌平区の西北)へ進ませ、慕容儁自らは中道から諸将を率いて盧龍塞(現在の河北省唐山市遷西県の西北)へ進んだ。また、輔国将軍慕容恪・前鋒将軍鮮于亮を軍の前鋒とし、さらに軽車将軍慕輿泥に命じて山木を切り倒して道を切り開かせた。また、世子の慕容曄には龍城の留守を命じ、内史劉斌を大司農に任じて典書令皇甫真と共に補佐を委ね、まだ幼い慕容曄の代わりに政務事務全般を管轄させた。

慕容垂軍が三?(現在の河北省唐山市?州市の西南)まで到達すると、楽安城[13](現在の北京市順義区の北西)を守備する後趙の征東将軍ケ恒は大いに恐れ、倉庫を焼き払って安楽から撤退し、後趙の幽州刺史王午と合流して幽州の州都である薊城(現在の北京市西城区)へ後退した。前燕の徒河魯口南部都尉孫泳は急ぎ楽安に入城し、消火を行って穀物や絹布を保護した。慕容垂もまた楽安に入城すると、北平郡一帯の兵糧を確保した上で再び出撃し、臨渠城[14](正確な場所は不明だが、?河[15]に隣した場所にあるという)で慕容儁の本隊と合流した。
薊城へ到達

3月、慕容儁は無終へと軍を進めた。


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