慈禧太后
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映画については「西太后 (映画)」をご覧ください。

西太后
慈禧太后
慈禧太后 晩年の真影
続柄満州?藍旗人葉赫那拉氏恵徴の娘

全名孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇熙配天興聖顕皇后(hiyoo?ungga kobton jilan h?turi, tob karmangga, nelhe ujingga, genggiyen sulfangga, tob unenggi, jalafungga gungnecuke, kobton fengkin, wesihun taifin abka de adabuha, enduringge be yendehe iletu h?wangheo)[1]
称号聖母皇太后
老仏爺
身位蘭貴人→懿嬪→懿妃→懿貴妃→皇太后
敬称陛下
Her Imperial Majesty
出生道光15年10月10日
1835年11月29日

北京
王府井錫?胡同
死去光緒34年10月22日
1908年11月15日
72歳没

北京
中南海儀鸞殿
埋葬宣統元年10月4日
1909年11月16日

直隷省
遵化直隷州
普陀峪定東陵
配偶者咸豊帝
子女同治帝
父親恵徴
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宦官に担がれた神輿に乗る西太后西太后と外国の婦女

西太后(せいたいこう、シータイホウ、道光15年10月10日1835年11月29日〉- 光緒34年10月22日1908年11月15日〉)は、咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州旗人(?藍旗人)のイェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。孝欽顕皇后(こうきんけんこうごう)、満洲語: .mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}??????????
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????????、メレンドルフ式転写: hiyoo?ungga gingguji iletu h?wangheo[2]、または慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ)とも呼ばれる。

中国語では「慈禧太后(Cix? Taihou、ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(X? Taihou、シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。

紫禁城内における3人の皇太后の住む場所によって、中宮、東宮(東太后)(第2夫人・ニオフル氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西宮(西太后)(第3夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇熙配天興聖顕皇后[読み疑問点]。
西太后の名前について

「西太后」とはもともと咸豊帝の第2夫人であった「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称である。皇帝との間に男子を産んだ西太后に対し、東太后は皇帝の正室となったが男子(世継ぎ)を産むことがかなわなかった。それでも儒教の論理や洪武帝の祖法のしきたりにより東太后は次期皇帝の嫡母となることが決められており、西太后自身は生涯において皇后になることは出来なかった。咸豊帝崩御に伴い同治帝が即位すると、皇后は皇太后として「東太后」となり、同治帝を産んだ生母も皇太后となり「西太后」と呼ばれるようになったのである。

幼名は「蘭児」で、数え18歳で後宮に入ると「蘭貴人」となり、のちに徽号を「懿」に変えた。昇進するにつれ懿貴人から懿嬪、そして男子誕生により「懿貴妃(nesuken guifei)」となった。咸豊帝崩御後は「慈禧皇太后」となったが、当時のしきたりではめでたいことや吉兆があるたびに二文字追加されるため、息子(同治帝)の結婚により「端佑」が追加され「慈禧端佑皇太后(jilan h?turi tob karmangga h?wang taiheo)」となり、同治帝の親政開始で「康頤」が加えられ、その後も吉事の度に二文字ずつ追加されて最終的な諡号は「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇熙配天興聖顕皇后」となった。

近年西太后の弟桂祥(グイシャン)の曾孫を名乗る那根正(近年では葉赫那拉根正と名乗る)が『我所知道的慈禧皇太后』(中国書店、2007年)で西太后の本名は杏貞、隆裕太后の本名は静芬であるという説を提唱してから広まったが、那根正の語る話には矛盾が多く、信憑性には疑問が残る。

那根正は自分の祖父を桂祥の息子増錫(原名徳錫)であるとしているが、桂祥の息子で確認されているのは徳恒、徳祺の2人で、徳錫という人物は確認できない。[3]

那根正は『我所知道的末代皇后隆裕』(中国書店、2008年)で桂祥の没年について1928年としているが(63頁)、実際には桂祥は娘の隆裕太后が死去した同年の1913年12月に死去しており、史実と一致しない。『宣統年交旨档』(全国図書館文献縮微複製中心、2004年)宣統五年十一月十八日(1913年12月15日)諭旨によると、(419頁)、死去した桂祥のために清室から五千両が下賜され、長子徳恒を頭等侍衛、乾清門行走とし、次子徳祺を侍衛として用いたとある。

那根正は、清代の著名な詩人で葉赫那拉氏の納蘭性徳の九世孫(または納蘭性徳の近親の子孫)で、かつ西太后の弟桂祥の曽孫を自称している。納蘭性徳は最後の葉赫部領主金台石の曽孫で、金台石の子孫は正黄旗に編入された。一方西太后の一族は同じ葉赫那拉氏であっても?藍旗に編入され、西太后の時代に抬旗されて?黄旗に移っている。西太后の祖先喀山はヌルハチが葉赫部を滅ぼす以前にヌルハチに服属しており、葉赫部領主金台石の子孫ではなく、納蘭性徳の系統とは全く別の系統に属する。そのため那根正が主張する、那蘭性徳の九世孫で、かつ西太后の弟桂祥の曽孫というのは成り立たない。

以上のような理由で、中国の研究者の間では、那根正の出自に対しても疑問が呈せられている。[4]
生涯
后への選抜と皇子出産

西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。

1851年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。後に「蘭」から「懿」に徽号を変えており、貴人から懿嬪に進んだ。ちなみに皇后はニオフル氏(のちの東太后)であった。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の長く生きた男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した[注釈 1]
政権掌握

アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華粛順らは激しく争った。

懿貴妃は皇后ニオフル氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝にあたっていた恭親王奕?を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを起こし、載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を手にした。

北京へ帰還した後、載淳は同治帝として即位し、皇后鈕?禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿群・東六所の鐘粋宮に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿群・西六所の儲秀宮に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政(すいれんちょうせい)を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。

1874年同治帝は大婚[注釈 2]を機に親政を行おうとしたが若くして崩御した。この時代にも、西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉し殺害)と皇帝の仲を無理に引き裂く等、依然として権力をふるっていた。

同治帝の死因は天然痘梅毒のいずれか解明されていないが、天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。現代中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、日本では天然痘によるものであるとされている。

同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕?)載?(さいてん)を光緒帝として即位させた。


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