慈照寺
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この項目では、銀閣寺として知られる京都市の寺院について説明しています。その他の寺院については「慈照寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

慈照院」とは異なります。

慈照寺
観音殿(銀閣)
所在地京都府京都市左京区銀閣寺町2
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度1分36.75秒 東経135度47分53.7秒 / 北緯35.0268750度 東経135.798250度 / 35.0268750; 135.798250 (慈照寺)座標: 北緯35度1分36.75秒 東経135度47分53.7秒 / 北緯35.0268750度 東経135.798250度 / 35.0268750; 135.798250 (慈照寺)
山号東山(とうざん)
院号慈照院殿
宗派臨済宗相国寺派
寺格相国寺境外塔頭
本尊釈迦如来
創建年延徳2年(1490年
開山夢窓疎石(勧請開山)
開基足利義政
正式名東山慈照禪寺
別称銀閣寺、銀閣
東山殿、東山山荘
札所等神仏霊場巡拝の道第109番(京都第29番)
文化財観音殿(銀閣)、東求堂(国宝
絹本著色春屋妙葩像(重要文化財
庭園(国の特別史跡特別名勝
世界遺産
公式サイト臨済宗相国寺派 銀閣寺
法人番号4130005001290
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境内図 1.総門、2.中門、3.庫裡、4.方丈(本堂)、5.東求堂、6.弄清亭、7.向月台、8.銀沙灘、9.錦鏡池、10.白鶴島、赤色は銀閣。

慈照寺(じしょうじ)は、日本京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派寺院大本山相国寺の境外塔頭山号は東山(とうざん[1])。本尊釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政開山夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。

古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣飛雲閣西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
歴史

室町幕府8代将軍足利義政文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺(現・浄土院)のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院(戦国時代廃寺)の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された[2]

当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。

延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた[3]。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。

戦国時代中期の天文19年(1550年)には第12代将軍足利義晴とその子で第13代将軍義輝により慈照寺の裏山に中尾城が築かれ(短期間で廃城)[4]、末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる[5]。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。

1952年昭和27年)3月29日には庭園が、国の特別史跡および特別名勝に指定された。1994年平成6年)12月17日には「古都京都の文化財」として ユネスコ世界遺産に登録されている。

かつて浄土寺の鎮守社で、後に慈照寺の鎮守社となった八神社が境内地の北にある。
観音殿(銀閣)銀閣(東正面)銀閣(北東から)

慈照寺観音殿(以下「銀閣」と表記)の建築形式、間取り等については以下のとおりである。銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建つ。長享3年(1489年)の上棟である。屋根は宝形造?葺で、屋頂に鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた[6]

鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られていた痕跡もない。これには色々な説がある。上層は当初は内外とも黒漆塗であった[6]。初層の平面規模は東面および西面が8.2メートル、北面が7.0メートル、南面が5.9メートルである(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1メートルほど長くなっている)

初層は「心空殿」と称し、住宅風の造りになる。初層東側には落縁が設けられ、も二軒(ふたのき)となり、こちら側が正面であることを示している[6]。初層の南半部(正面から見て左側)は、手前を4大の吹き放しの広縁とし、その奥を8畳大の仏間とする。仏間は板敷で、天井は吹き寄せ格天井とする。初層の北半部は手前が畳敷の6畳、その奥は3畳大の板敷の小室が南北に並ぶ。このうち北側の室には上層への階段と勝手口、南側の室には押入がある。階段は上層の北側の回縁に通じている。なお、この3畳間2室は部屋としての役割が曖昧であるうえに後世の改造の痕跡があり、当初とは間取りや階段の位置が異なっているとみられる[7]

初層の外周は、南面と西面は腰壁入りの障子窓とし、北面は東半部が腰壁入りの障子窓、西半部は土壁とする。仏間正面と6畳間正面は腰高障子を入れ、広縁・6畳境は杉戸を用いる。上層は「潮音閣」と称し、初層とは異なって禅宗様の仏堂風に造る。柱間は東西南北とも3間で、内部は仕切りのない1室で観音菩薩坐像を安置し、四周に縁と高欄をめぐらす。創建当初の上層は内外とも黒漆塗で、軒下には彩色があったことが痕跡から判明している。

鹿苑寺金閣の三層が東西南北とも同形式で、柱間も等間隔に割り付けているのに対し、銀閣の上層は東面と西面のみ形式が同一で、南面と北面は異なっている。金閣の三層は4面の中央に戸を設けるが、銀閣の上層は南面と北面のみに桟唐戸を設ける。上層南面は中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓とする。北面は中央間が桟唐戸、両脇間は窓がなく板壁である。東面と西面には出入口はなく、3間とも花頭窓とする。柱間寸法は、東面と西面が3間を等間隔に割り付けるのに対し、南面と北面は戸の立つ中央間を両脇間より広く取る[8]。東面と西面は、桁を支える主要柱の外側に張り出しを設けており、そのため、回縁は東側と西側において幅が狭くなっている。前述の花頭窓はこの張り出し部に設けられている。東西の張り出し部は、室内では造り付けの腰掛となっている。

二層内部は板敷、格天井の1室で、西寄りに須弥壇を置き、観音菩薩坐像(洞中観音)を東向きに安置する[9]。上層の建築様式は禅宗様を基調とするが、縁の高欄は和様の刎高欄である。初層は東を正面とし、上層の観音菩薩像も東向きに安置されているが、上層では南面と北面のみに戸があり、正面にあたる東面には出入口がない。以上のような上層の状況をみれば、上層は桟唐戸のある南面が正面とみなされ、当初は銀閣の南側に池があり、池を挟んで南側から観音像を拝する形であったと推定されている[10]。銀閣はこのような変則的な形式をもつことに加え、部材にみる改造の痕跡から、かつて別の場所に建てられていたものが移築改造されたものである、とする説もある[11]。ただし、平成21年(2009年)に行われた発掘調査によって、現・銀閣の下で室町時代の整地層と石列が確認され、銀閣は創建時の位置から移動していない可能性があるとの調査結果が公表された[12][13]

金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことである[14]万治元年(1658年)に刊行された『洛陽名所集』などの文献に「銀閣寺」の名前が見られる[15]

金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には外壁に黒漆は塗られているが銀箔は使用されていない。「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説、「外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」という説がある。また、「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」という説[16]もあったが、平成19年(2007年1月5日に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている[17]。ちなみに、義政の妻・日野富子は資金援助を一切しなかったともいわれている。

屋根は約30年ごとに葺き替えられている。平成20年(2008年)2月から平成22年(2010年)3月まで、?葺の屋根の葺き替えや柱や壁など傷んだ部材の交換、耐震補強、2階の潮音閣内部に黒漆を塗るといった、大正初期以来の大規模な修復作業が行われた。

修復に際し、京都府教育委員会は老朽化を防ぐために銀閣の外壁に黒漆を塗り創建当時の姿に戻すことを提案したが、所有者である慈照寺の意向により現在の外観を維持する方針で修理が行われることになった[18]。また、工事と同時に調査も実施され、1階の「心空殿」からは創建当時のものとみられる仏像を安置するための「仏間構え」の痕跡や、2階の外壁の軒下部分からは花などの模様をかたどった赤や青に彩色された跡も見つかった。総事業費は約1億4000万円。修復終了後の平成22年(2010年)4月12日住職有馬頼底らによって落慶法要が営まれた。

銀閣雪景

銀閣(東正面の俯瞰)

銀閣(北面)

東求堂東求堂東求堂と庭園

東求堂(とうぐどう)は一重入母屋造檜皮葺で、文明18年(1486年)の建立である。軒は疎垂木組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。

平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模である(ここで言う「間」は畳の長辺の長さ)。南を正面とし、内部は4室に分かれる。正面側は西(向かって左)を8畳大の仏間、東を縦4畳の室とする。奥側は西が6畳、東が「同仁斎」と呼ばれる4畳半の書斎である。仏間は床を板敷、天井を折上小組格天井とする。他の3室は畳敷で天井は棹縁天井とし、室境はいずれもとする。

仏間は正面奥に須弥壇を設け、阿弥陀如来立像を安置[19]。西側は襖の奥に位牌棚を設け、南寄りに法体の足利義政像を安置する[19]。仏間の襖は現在は白紙が貼られているが、当初は狩野正信筆の十僧図があった[20]。東求堂の西側外面、仏間の外にあたる位置では外壁の一部が床の間状に後退し、その部分が縁に面した腰掛になっている。これは昭和39年 - 40年(1964年 - 1965年)の解体修理時に復元したものである。『蔭涼軒日録』に「西向きの床」と記されていたものがこの腰掛にあたる。仏間正面は中央間を桟唐戸両開き、その両脇を連子窓に腰板壁とするが、それ以外の堂の外面は舞良戸か壁とする。

東北に位置する4畳半(同仁斎)は、北面の左側に半間幅の違棚、その右に一間幅の書院(出文机)を設ける。棚と書院は回縁に張り出す形で設けられ、書院部分の外側は舞良戸、内側は明障子とする。この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、書院造の源流といえるものである[21]

解体修理時に同仁斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかっており、当初は室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる[22]茶道史では江戸時代以来、同仁斎は四畳半茶室の始まりと伝えられており、堀口捨己は『君台観左右帳記』に描写される同仁斎の座敷飾りを論拠として義政時代の同仁斎茶室説を支持している[23]

「東求堂」と「同仁斎」の名は義政の命で横川景三(おうせんけいさん)が撰した候補のなかから義政が選んだもので、「東求堂」は「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」(六祖壇経)、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁」(韓愈)を出典とする[24]

扁額「東求堂」は足利義政の筆、扁額「隔簾」は相国寺派5代管長大津櫪堂の筆である。


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