愛知電気鉄道
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愛知電気鉄道株式会社
大正時代の神宮前駅。
駅に隣接する2階建の建物が愛電本社。
種類株式会社
略称愛知電鉄、愛電
本社所在地 日本
愛知県名古屋市南区熱田東町字新宮坂34[1]
設立1910年(明治43年)11月21日
業種陸運業
事業内容旅客鉄道事業、他
代表者代表取締役社長 藍川清成
資本金14,869,175円(払込額)
発行済株式総数341,821株
(1934年11月30日現在[2]
営業利益1,629,052円
経常利益427,795円
総資産36,119,636円
従業員数723名
主要株主愛知証券保有(株) 3.38%
藍川清成 1.34%
下出民義 0.98%
(1934年11月30日現在[2]
主要子会社愛電自動車知多鉄道、他
特記事項:上記データのうち特記なきものは1934年(昭和9年)下半期[3]1935年(昭和10年)8月1日付で名岐鉄道と合併。
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愛知電気鉄道株式会社(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:愛知電氣鐵道󠄁株式會社󠄁、あいちでんきてつどう)は、1910年明治43年)に設立され、愛知県名古屋市を拠点として主に県南東部において鉄軌道事業を展開した鉄道事業者である。

1935年昭和10年)8月に名岐鉄道と合併して消滅したが、愛知電気鉄道が敷設・運営した路線は前記合併により成立した現・名古屋鉄道(名鉄)において基幹路線の一翼を形成した[4]。現・名鉄発行の『名古屋鉄道社史』においては、名岐鉄道と並んで名鉄の前身事業者における二大主流と評される[4]
概要

愛知電気鉄道は、古くより発展した商工地帯でありながら公共交通の便に恵まれなかった知多半島西岸地域と名古屋市を結ぶ鉄道路線を敷設・運営する目的で[4]、1910年(明治43年)に設立された[5]

当初は、1913年大正2年)3月に開通した[6]、後に常滑線(現・名鉄常滑線)と称される路線を運営する局地的な事業者であったが[7]1922年(大正11年)より名古屋市と県東部の主要都市である豊橋市を直結する豊橋線(後の名鉄名古屋本線の一部)の建設に着手し[8]1927年(昭和2年)6月に全線開通を迎えた[8]。また県東部幡豆地方の城下町であった西尾町を中心とした鉄道路線網を有した西尾鉄道を吸収合併し[9]、さらに傘下事業者として知多鉄道碧海電気鉄道を設立し路線を敷設するなど[8]、主に県南東部において多くの鉄道路線網を有する事業者となった[8]

昭和初期の経済不況により一時は経営危機に直面し[10]、景気回復とともに危機的状況を脱した後は[11]、同時期に政府主導で推進された地域交通事業者の統合の時流に沿う形で名古屋財界より名岐鉄道との合併を打診された[12]。当初は愛知電気鉄道・名岐鉄道とも合併に消極的であったが、名古屋政財界人の仲介による折衝を経て合併に合意[12]、両社は名岐鉄道を存続会社として1935年(昭和10年)8月1日付で合併した[12]。同日をもって愛知電気鉄道は解散し、保有資産は名岐鉄道改め現・名古屋鉄道へ継承された[13]
歴史

以下、主に鉄道事業者としての愛知電気鉄道について詳述する。
前史藍川清成

愛知県の南西部に位置する知多半島は、東岸地域については鉄道院によって敷設された武豊線によって名古屋市と結ばれていたものの[4]、古代より常滑焼など窯業を中心として発達した商工地帯であった西岸地域については鉄道路線が存在せず、明治年間末期においても名古屋方面への客貨輸送は1日数便の馬車ないし船便のみに頼る状況であった[4]

そのため、半島西岸地域の有力者より半島西岸から名古屋方面に至る鉄道路線敷設計画が立案され[14]、地元の大手電力会社であった名古屋電灯の顧問弁護士で、同社の取締役も務めた藍川清成[15]を中心とする計7名の発起人により[14]、名古屋市近郊の愛知郡熱田町より呼続・鳴海・大高・横須賀を経て半島西岸沿いに知多郡常滑町へ至る、私設鉄道法による複線の電気鉄道「知多電気鉄道」が1906年(明治39年)12月に免許申請された[6]。事業計画内容は発起人のうち、かつて名古屋電気鉄道の経営に携わった経歴を持つ小山朝佐・林友二らによって作成されたが[14]、この免許申請は却下され、実現しなかった[6]

その後計画が進展しなかったことから、藍川は当時の愛知県知事であった深野一三名古屋電力の常務取締役であった兼松煕ら地元政財界の要人に援助を要請し[14]、兼松よりかつて甲武鉄道にて取締役を務めた岩田作兵衛を紹介された[14]。岩田は雨宮敬次郎らに代表されるいわゆる「甲州財閥」の1人で[16]、雨宮とともに甲武鉄道のほか青梅鉄道・川越鉄道(後の旧・西武鉄道)・京浜電気鉄道など数多くの私有鉄道の敷設運営に携わった実業家であった[16]

出生地が岐阜県稲葉郡下羽栗村であったという地縁から藍川の要請を受諾した岩田は[14]、知多電気鉄道計画は建設費を削減することによって十分採算が取れると判断し[16]、計画を軌道条例による単線の電気軌道に変更するとともに[16]、元関西鉄道社長の田中新七らを新たに発起人に加え[14]、岩田自身が発起人総代となり1909年(明治42年)9月に特許を出願した[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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