愛知県立岡崎北高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度58分16.5秒 東経137度10分38.2秒 / 北緯34.971250度 東経137.177278度 / 34.971250; 137.177278
愛知県立岡崎北高等学校(あいちけんりつ おかざききたこうとうがっこう)は、愛知県岡崎市石神町にある公立高等学校。 各学年の募集定員は360名(2016年(平成28年)から3年間は400名)であり、全校生徒は2020年現在1120名程度。同窓生数は、女学校及び市立高校時代も含め、2020年4月現在33,941名である(公式ホームページによる)。通称は「きたこう」、「おかきた」など。 岡崎市の北部に位置し、近くには乙川の支流である伊賀川が流れている。また南には岡崎学園高等学校、北には岡崎市立葵中学校などがある。周辺は新興住宅地である。校内は比較的緑が多く、校庭自体も木々で囲まれている。また、校舎の前にはポプラ並木がある。 建物としては校舎の他に体育館、武道場、弓道場、それ以外にテニスコート、野球場、プール、校庭などがある。中でも校庭(陸上競技場)はスタンド(階段席)があり、400メートルトラックがある。敷地面積は78,601m2。 2007年(平成19年)で創立100周年であり、それを記念して正門周辺環境整備事業が起案され、2007年8月30日に完成した。
概要
沿革六供町にあった岡崎市立高等女学校の講堂岡崎市立高等女学校の運動場(1934年)昔の正門新しい正門体育館
高等女学校時代
1907年(明治40年)
3月30日 - 額田郡岡崎町への高等女学校の設置が認可される。
4月1日 - 校地が岡崎町大字康生に定められる。
4月2日 - 上記校地への校舎および寄宿舎の建設が認可される。
4月12日 - 岡崎町大字門前の随念寺[1]を仮校舎として「岡崎町立高等女学校」が開校。
4月27日 - 開校式を挙行。初代校長は三井政善[2]。
12月13日 - 校舎の新築移転をめぐって、反対派が「二校案期成同盟会」を組織する。この頃、連尺尋常小学校と投尋常小学校の増改築と同時に高等女学校の新築もあわせてすべきだとする「三校派」と、尋常小学校2校の増改築のみをすべきだと主張する「二校派」の間で激しい対立があった[3]。
1908年(明治41年)
2月21日 - 岡崎町の役場前の弁天坂で二校派の町民1000人ほどが三校派の議員に対し投石。流血を伴う暴動事件が発生する(いわゆる二校三校事件)[3]。
6月15日 - 旧・連尺尋常小学校跡地(現・岡崎警察署の敷地)に移転。
1909年(明治42年)4月13日 - 岡崎町大字六供にあった旧・岡崎高等小学校の校舎跡地(現・岡崎市六供町。岡崎市民会館の敷地)に移転。
1909年(明治42年)5月10日 - 二代校長に千蔵尚就任
1911年(明治44年)4月1日 - 実科を設置。
1912年(明治45年)4月1日 - 補習科を設置。
1916年(大正5年)