愛知揆一
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日本政治家愛知 揆一あいち きいち
1971年(63 - 64歳)
生年月日1907年10月10日
出生地東京都千代田区(旧・麹町区
没年月日 (1973-11-23) 1973年11月23日(66歳没)
死没地東京都新宿区
出身校東京帝国大学(現・東京大学[1]
前職国家公務員大蔵省
所属政党(自由党→)
自由民主党佐藤派田中派
称号従二位
勲一等旭日桐花大綬章
配偶者妻・愛知富子
親族養女・愛知絢子
娘婿・愛知和男
孫・愛知治郎
第77代 大蔵大臣
内閣第2次田中角栄内閣
在任期間1972年12月22日 - 1973年11月23日
第92-93代 外務大臣
内閣第2次佐藤第2次改造内閣
第3次佐藤内閣
在任期間1968年11月30日 - 1971年7月5日
第16・25代 内閣官房長官
内閣第1次岸改造内閣第1次佐藤第2次改造内閣
在任期間1957年7月10日 -1958年6月12日1966年8月1日 - 1966年12月3日
第84-85代 文部大臣
第14-15代 科学技術庁長官
内閣第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
在任期間1964年7月18日 - 1965年6月3日
第12代 法務大臣
第11代 自治庁長官
内閣第2次岸内閣
在任期間1958年10月28日 - 1959年1月12日
その他の職歴
第9代 通商産業大臣
第7代 経済審議庁長官
第5次吉田内閣
1954年1月9日 - 1954年12月10日
衆議院議員
宮城県第1区
当選回数 7回
1955年2月28日 - 1973年11月23日
参議院議員
全国区
当選回数 1回
1950年6月5日 - 1955年2月1日
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愛知 揆一(あいち きいち、1907年10月10日 - 1973年11月23日[2])は、日本大蔵官僚政治家参議院議員から衆議院議員に転じ、内閣官房長官外務大臣大蔵大臣などを歴任した。
来歴・人物

東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、愛知敬一・祥夫妻の長男として生まれた。父・敬一は物理学者で、1911年(明治44年)に東北帝国大学理科大学物理学科の教授に就任したため、一家は仙台市へ移った。母・祥の実家も代々漢学者の系統という家柄で、一家を挙げての学者家庭だったという[3]

愛知は旧制宮城県第二中学校(現在の仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校文科乙類[4]を経て東京帝国大学法学部政治学科に入学、1931年(昭和6年)に卒業した。二中時代には、柔道部に所属していた。学生時代は秀才として鳴らし、中学時代には同級生[注釈 1]で後に最高裁判所長官となる岡原昌男と常に成績トップの座を競い合ったり[3]、東大法学部時代には刑法牧野英一民法我妻栄という大家の下で学び、成績も「優」を10個取得すれば秀才と言われた中にあって15個も取得するなど、秀才ぶりを伝える逸話もある[3]

中学3年の折に父・敬一がフグによる食中毒で満42歳で急死した[3]

東京帝大卒業後は大蔵省に入省し、銀行局に配属された[5]。財務書記として英・仏に駐在したほか、ロンドン国際経済会議随員(1933年6-7月)・馬場^一大蔵大臣秘書官・文書課長(1945年)を務める[6]。主に財務・国際金融を担当した。終戦後は、同省官房長銀行局長(1947年)などを歴任し[6]GHQによる財閥解体のなかで日本の金融界を守るべく腐心した。銀行局長時代の1948年(昭和23年)、梅林組及び竹中工務店に対する融資問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に池田勇人小坂善太郎らとともに証人喚問された[7]

1950年(昭和25年)に大蔵省を退官し、同年実施された第2回参議院議員通常選挙において参議院全国区から自由党公認で立候補して、初当選した[6]。それまでの経験と政策能力は、同じく大蔵省出身で当時大蔵大臣を務めていた池田勇人から高く評価され、1952年(昭和27年)の池田・ロバートソン会談には、政府代表として池田に随行した。

当時の内閣総理大臣・吉田茂の側近として「吉田13人衆」のひとりにも数えられ、1952年(昭和27年)に組閣された第5次吉田内閣では、通商産業大臣経済審議庁長官に起用された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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