愛発関
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愛発関の推定所在地を示した地図

愛発関(あらちのせき)とは、北陸道に置かれ、越前国にあったとされる関所東海道伊勢国鈴鹿関東山道美濃国不破関とともに古代三関(さんげん)の1つであった。奈良時代から平安時代初期の一時期のみ存在し、のちに逢坂関にとってかわられた。その詳細な所在地は明らかになっていない。ただし、敦賀市疋田近辺が地域名として愛発の名を継承し、愛発小学校、愛発中学校(いずれも廃校)、愛発駐在所などの名称のほか、検問所も置かれている。
概要

大化の改新以降、日本は本格的に律令国家を目指し、国家的な土木事業として、都と地方を結ぶ官道(駅路)を整備した[1]。律令制のもと三関と定められた[原 1]愛発関、鈴鹿関、不破関は、いずれも近江国から他国に出てすぐの官道の行き来を抑える位置に設けられ[2][3]政変反乱が起きた場合に、首謀者が東へ逃亡することを防ぐことを目的のひとつとし[2][4]、三関を遮断する固関(こげん)が行われた。最初の例として[3]養老5年(721年)に元明上皇が死去した際に固関の命令がなされている。以降、天平元年(729年)の長屋王の変天平宝字8年(764年)の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱などでも固関が行われた記録がある。このように、奈良時代は三関が大いに機能していた時期であったが、延暦8年(789年)には、通行の妨げであるとし、三関は一旦廃止された。しかし、それ以後も天皇崩御のたびに固関が行われ[4]、以降、時代を追うごとに形式化していくものの、江戸時代初期まで続いていた[5]。なお、大同元年(806年)の桓武天皇の崩御の際の固関を最後に愛発関の記録は無くなり[6][7]弘仁元年(810年)の薬子の変では愛発関の名称は見えず逢坂関に変わっており[4]、数十年間だけ存在した関であったとみられ、幻の愛発関と呼ばれることもある[8]

なお、考古学的な調査としては、三関のうち、不破関は昭和49 - 52年(1974 - 1977年)の発掘により位置と構造が明らかにされており[9]、また、鈴鹿関は平成17年(2005年)に関の城壁の築地塀を検出して以降、大きく調査が進展した[10]。愛発関も推定地の一つである疋田・追分地区で平成8 - 12年(1996 - 2000年)に発掘調査が行われたが、遺構などを発見するには至っていない。愛発関の所在地については古くから諸説あるが、以下の点が相互に関係し、類推のポイントとなっている。
古代の北陸道がどの時期にどこを通っていたか。

恵美押勝の乱時の押勝の動きを矛盾なく説明できるか。

不破関、鈴鹿関、逢坂関の構造と大きな相違が生じないか。

固関をおこなった歴史的事件

721年養老5年) 元明上皇崩御[原 2](史料で確認できる固関の最初)

729年天平元年) 長屋王の変

756年天平勝宝8歳) 聖武上皇崩御

764年天平宝字8年) 恵美押勝の乱[原 3]

765年天平神護元年) 称徳天皇紀伊国に行幸

770年宝亀元年) 称徳天皇崩御

781年天応元年) 光仁太上天皇崩御

782年延暦元年) 氷上川継の乱

789年(延暦8年) 三関の廃止[原 4]

806年大同元年) 桓武天皇崩御(愛発関が史料で確認できる最後)

810年弘仁元年) 薬子の変[原 5](愛発関に代わり逢坂関が現れる)

古代北陸道と愛発関

近江国と越前国を結ぶ交通路は、以下のように複数存在しており[11]、愛発関が存在していた奈良時代にどのルートが官道であったのか という点が、その所在地を考察する上で大きな論点となっている。

A)西近江路七里半越、山中越):海津-小荒路-野口-路原-国境-山中-駄口-追分-疋田、現状の国道161号

B)白谷越(雨谷越、黒河越):石庭-白谷-黒河峠-雨谷、現状の黒河林道マキノ林道

C)若狭国を経由するルート:今津-水坂峠-上中-三方-郷市-関峠、現状の国道303号国道27号

D)深坂越(塩津街道):塩津-余-沓掛-深坂峠-追分、現在も山道である。

E)東近江路(北国街道):柳ヶ瀬-椿坂峠-栃ノ木峠-今庄方面、現状の国道365号

F)新道野越:大浦-山門-新道-麻生口-曽々木-疋田、現状の滋賀県道286号国道8号

延長5年(927年)に完成した『延喜式』には、近江国の鞆結駅(滋賀県高島市石庭または白谷付近)、越前国の松原駅(福井県敦賀市気比松原付近)が記載されており、二つの駅の位置関係からA)西近江路 あるいはB)白谷越[12]のどちらかが北陸道の本路であったと推定されており、奈良時代も本ルートが官道であったとする説がある[13]

一方、それ以前に駅の改廃や道路の建設に関する史料があり、北陸道のルートには変遷があったとする見方がある。『類聚国史』の天長9年(832年)に「荒道山道」の工事の記事があり、「荒道」は「愛発」を指し、このときに西近江路か白谷越のどちらかが建設されたと考える説があり、それ以前はC) の近江国から若狭国を経由し越前国に至るルートが北陸道の本路であったと考える説もある[3]

若狭国経由の根拠としては、『古事記』に記載の仲哀天皇応神天皇の行幸ルートが若狭国を通過しているとみられること、『日本紀略』の延暦14年(795年)に近江と若狭間の駅が廃止されたと解釈できる記事があること[3]、『延喜式』では若狭国の駅は野飯駅・弥美駅の二駅のみであるが、平城宮から発掘された木簡には玉置駅と葦田駅の名称も見え[4]、奈良時代には複数の駅があったとみられ、ルート変更による駅の改廃が示唆されること、などが挙げられている。

以上のように奈良時代の北陸道は、A)西近江路、B)白谷越、C)若狭国経由 のいずれかとされ、愛発関もこのルートから越前国に入ったところにあった可能性が高いと考えられている。また、不破関、逢坂関では大関・小関の二つの関をもち、複数の交通路を抑えるようになっていることから、愛発関も同様にA)?C)の一箇所だけでなく、二箇所に配置していたとする説もある[3]


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