愛甲郡
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愛甲郡(あいこうぐん)は、神奈川県の

人口42,115人、面積105.52km²、人口密度399人/km²。(2024年4月1日、推計人口

以下の1町1村を含む。

愛川町(あいかわまち)

清川村(きよかわむら)

郡域

上記の1町1村以外では、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。

厚木市(旭町四 - 五丁目の各一部、岡田一 - 五丁目および大字戸田、長沼、酒井、上落合、岡田、下津古久を除く全域)

歴史

相模国に属し、元は同国最北部にあたる相模川道志川流域の山間部も領域に含んだ。郡衙厚木市内にあったとされるも不詳。

古くは「あゆかは」と読んだ。この地名は後に「鮎川」「愛川」の地名が派生する源となった。

中世、現在の厚木市付近に毛利荘が成立し、鎌倉時代初期に幕府の創立に貢献した大江広元の所領となった。彼の子孫は毛利氏を名乗り、後に安芸国に移転して戦国大名近世大名に成長した。越後国などに移転した一族も上杉謙信の勇躍に協調して活躍している。

北部の山間部は「奥三保」と呼ばれていたが、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏(津久井は三浦半島の地名、後に大江氏の血統に置換したとも言われる)が城山相模原市緑区)に城郭(津久井城・築井城)を築いて以降、「津久井」と呼ばれるようになった。江戸時代、この地域は愛甲郡から分離されたが、独立した郡とするには至らないと観念されたのか、「津久井県」の名で呼ばれた。明治に入り、津久井郡と改称された。

戦国時代には小田原後北条氏の支配下に入った。半支配と呼ばれる武田の飛び地を抱えたが、城代内藤氏以下の苦心の統治によって甲斐国武田氏に対する前線となった。1569年(永禄12年)、現在の愛川町で両軍による三増(みませ)合戦(三増峠の戦い)が起きている。

江戸時代、郡内の多くの地域が小田原藩の支配となったが、さらに他の領や幕府直轄領旗本領なども混在し、後期になるにつれて支配関係は複雑なものになっていった。

1706年(宝永3年)、小田原藩主大久保氏の分家が加増を受けて独立した藩となった。当郡内の中荻野村(現厚木市)に陣屋を置き、荻野山中藩と呼ばれた。

江戸時代後期、当郡の一部が下野国烏山藩の所領となり、同藩は当郡や高座郡など相模国内の所領を支配するための役所を厚木に置いた。

1868年(慶応4年)、徳川氏静岡入封にともない、荻野山中藩の駿河国内の領地に替えて当郡内の幕府・旗本領の多くが同藩の領地となった。残った旧幕府・旗本領は神奈川県の管轄となった。

近代以降の沿革

「旧高旧領取調帳」に記載されている
明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。幕府領は代官江川太郎左衛門支配所(韮山代官所)が管轄した。川入五ヶ村新田、戸室村新田、下船子村はそれぞれ三田村、戸室村、船子村に含めて数える。(40村)

知行村数村名
幕府領幕府領(江川支配所)0村川入五ヶ村新田
旗本領6村●田代村、●金田村、熊坂村、●煤ヶ谷村、●七沢村、●岡津古久村
幕府領・旗本領2村●下依知村、●中依知村
藩領相模小田原藩1村○宮ヶ瀬村、戸室村新田
相模荻野山中藩19村●戸室村、○関口村、猿ヶ島村、棚沢村、●山際村、●下古沢村、●妻田村、●三田村、●愛名村、●○及川村、●上古沢村、船子村、●愛甲村、●恩名村、●中荻野村、●下荻野村、●上依知村、●八菅村、八菅山新田
下野烏山藩4村●○厚木村(厚木町)、●上荻野村、○半原村、三増村
下総佐倉藩0村下船子村
荻野山中藩・烏山藩5村●温水村、●林村、下川入村、半縄村、●角田村
幕府領・藩領小田原藩・旗本領1村●小野村
烏山藩・旗本領1村●飯山村
佐倉藩・旗本領1村長谷村


慶応4年

3月19日1868年4月11日) - 神奈川奉行新政府軍に接収されて横浜裁判所となり、幕府領・旗本領を管轄。

4月20日(1868年5月12日) - 横浜裁判所が神奈川裁判所に改称。内務は管下の戸部裁判所が担当した。

6月17日(1868年8月5日) - 神奈川裁判所が神奈川府に改称。

6月 - 小田原藩が戊辰戦争の処分により減封


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