この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年6月)
宣統帝 愛新覚羅溥儀
清
第12代皇帝
張勲復辟時の溥儀(1917年)
王朝清
在位期間1908年12月2日 - 1912年2月12日
1917年7月1日 - 1917年7月12日(張勲復辟)
都城紫禁城
姓・諱愛新覚羅溥儀
満洲語aisin gioro pu i
諡号愍皇帝
廟号恭宗
生年光32年1月14日(1906年2月7日)
没年 (1967-10-17) 1967年10月17日(61歳没)
父醇親王載?(実父)
同治帝(養父)
光緒帝(養父)
母醇親王妃瓜爾佳氏幼蘭
后妃孝恪愍皇后
孝睿愍皇后
明賢皇貴妃
敦粛福貴妃
陵墓華龍皇園献陵
年号宣統: 1909年 - 1912年
(満洲国)大同 : 1932年 - 1934年
(満洲国)康徳 : 1934年 - 1945年
康徳帝 愛新覚羅溥儀
清末帝
満洲国皇帝
満洲国皇帝時代の溥儀
在位1932年3月9日 - 1934年3月1日(執政)
1934年3月1日 - 1945年8月18日(皇帝)
戴冠式1932年3月9日、道台衙門
称号:皇帝
敬称.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
陛下
His Majesty the Emperor
His Imperial Majesty(H.I.M.)
愛新覚羅 溥儀
各種表記
繁体字:愛新覺羅 溥儀
簡体字:?新?? 溥?
?音:Aix?njueluo P?yi
ラテン字:P'u3-i2
和名表記:あいしんかくら ふぎ
発音転記:アイシンジュエルオ プーイー
テンプレートを表示
愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、アイシンギョロ・プーイー、満洲語:.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}?????
?????
?? ?、転写:aisin gioro pu i、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清の第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満洲国執政(1932年3月9日 - 1934年3月1日)、満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1960年から中華人民共和国中国人民政治協商会議(政協)文史研究委員会専門委員、1964年から政協全国委員を兼任。
字は「耀之」。号は「浩然」。辛亥革命後の呼称としては、廃帝と中華民国側から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。また、唯一火葬された皇帝のため「火龍(龍は皇帝を指す)」とも呼ばれる。 中華圏最後の皇帝であり、その生涯を題材にした映画から『ラストエンペラー』として知られる。幼帝として2歳で清朝第12代皇帝に即位し、元号から宣統帝と称される。辛亥革命後は遜清皇室小朝廷として大清皇帝の尊号は保持されたが、張勲復辟で復位して12日間で再び退位した。 その後も清室優待条件により紫禁城に住むことは許されたものの、北京政変で紫禁城を追われてしまう。さらに当初庇護を受けようとしたイギリスやオランダ公館に庇護を拒否されてしまい、天津の日本租界で日本公館の庇護を受けた。 これ以降の縁で、満洲事変以降関東軍の主導で建国された満洲国の執政に就任、満洲国軍大元帥や満洲国協和会名誉総裁などを兼任し、帝政移行後の満洲国の皇帝として即位した。満洲国皇帝としては元号から康徳帝(康徳皇帝)と称されることもある。第二次世界大戦における日本の敗戦と、ソビエト連邦軍(赤軍)の侵略を受けた満洲帝国の解散とともに退位した。 ソ連赤軍の捕虜となって中華人民共和国に引き渡され、1959年の遼寧省撫順戦犯管理所からの釈放後の1960年2月から1961年3月まで中国共産党の周恩来の指示により、一般市民にとしての生活に慣れるための「労働鍛錬」として中国科学院植物研究所の北京植物園に庭師として勤務したが、すぐに政協文史研究委員会専門委員に就任した。
概要