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出典検索?: "愛子内親王不登校騒動"
愛子内親王不登校騒動(あいこないしんのうふとうこうそうどう)は、皇太子徳仁親王と同妃雅子(当時)の第一子長女・敬宮愛子内親王が私立学習院初等科第2学年在籍中に学校を連日欠席していることが、2010年(平成22年)3月5日に宮内庁東宮職の東宮大夫により発表されたことから起こった一連の騒動。 そもそも敬宮愛子内親王の学習院初等科入学にあたっては従来の皇族と異なり「愛子内親王」ではなく「敬宮 愛子」として学校生活を送っていることを始め、校舎内にも私服護衛官を複数配置するなど厳戒態勢とも呼ばれる様々な体制が敷かれていた[1]。 愛子内親王は当時学習院初等科2年に在籍していたが、2010年(平成22年)2月下旬から風邪による体調不良のため「不規則な通学[2]」が続いており、東京新聞は、「2月22日から26日の間、25日以外を欠席した」と報じた[3]。なお、2月27日 - 28日は土日である。 同年3月1日、内親王は体熱は下がったものの、腹痛や強い不安感を訴えたため欠席。予定通り3月2日に4時間目の授業のみ出席し、給食は食べずに早退。その後、3月5日まで3日間連続して欠席した[4][5]。 宮内庁東宮職側は3月4日に学習院にファックスで連絡を取り、翌日の会見内容に了承を求め、学習院はそれを受けて欠席原因の調査を開始した[6][7]。ただし、この話し合いでは、欠席原因に対する双方の主張と見解は平行線をたどったという[8]。 この状況を取材していた『AERA』編集部は、3月8日に発売され、その前に見出しが宣伝される2010年3月15日号に「愛子さま「不登校」の真相」を掲載する準備を始めた。数日間の欠席を不登校ととらえ、内親王を誹謗中傷したのである。[7]。そのため、この段階で学習院と東宮職の間で穏便な解決を探るチャンスは失われてしまった。 3月5日、東宮大夫の野村一成が定例会見にて、先述のように「愛子内親王の学習院初等科の欠席が続いていること」を明らかにし、原因の調査結果について、「学習院初等科の男子児童が(愛子内親王を含む複数の)他の児童に乱暴していることが原因であるということが判明しました」と発表[2]。さらに、野村は乱暴の具体的な内容を話さなかったが「(愛子内親王)本人も乱暴な行為の対象になっているのだと思う」と発言した[2]。 野村が使用した「乱暴」という言葉が与えた影響は大きく、国内で大きな話題となったため、同日夜、学習院も記者会見を開いた。会見には常務理事:東園基政[9]と総合企画部長:竹島芳樹があたった。 同校は騒動になったことを謝罪しつつ、愛子内親王と別のクラスに物を投げる、廊下を勢いよく走る、大声を出すといった「乱暴な男子児童」が過去(2009年11月頃)に存在したことを認めたが、内親王に対する「直接の暴力行為」と「いじめ」の存在は否定した[6][10]。また、3月2日に早退しようとした愛子内親王は、外履きに履き替えた後に同級生の居る廊下に戻り、そこで飛び出してきた隣の組の男子児童2名とすれ違った。その際に、先述の「乱暴な男子児童」のことを思い出し「不安を感じたと拝察」したとしている[6]。
経緯
騒動直前の状況
東宮大夫による発表・学習院による記者会見