「松山中」はこの項目へ転送されています。その他の松山中については「松山中学校」をご覧ください。
愛媛県立松山東高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度50分31.51秒 東経132度46分47.99秒 / 北緯33.8420861度 東経132.7799972度 / 33.8420861; 132.7799972
愛媛県立松山東高等学校(えひめけんりつ まつやまひがしこうとうがっこう)は、愛媛県松山市持田町二丁目にある公立高等学校。
概要[ソースを編集]
藩校・明教館の流れを汲み、旧制松山中学以来の伝統を持つ県内最古の高等学校であり、進学校。初代校長は草間時福で、同校の校風に多大な影響を与えている。愛媛県尋常中学校時代に夏目漱石が第五高等学校へ赴任するまで1年間教鞭をとっており、この体験を元にして小説『坊っちゃん』が描かれた。
沿革[ソースを編集]
1805年(文化2年) - 松山藩藩主・松平定則により藩校興徳館を創立。
1821年(文政4年) - 藩主・松平定通が興徳館を移転、修来館と改称。
1828年(文政11年) - 修来館を拡充し明教館と改称。
1872年(明治5年) - 学制公布。旧明教館に松山県学校を開設。
1873年(明治6年) - 英学舎と改称。
1875年(明治8年) - 愛媛県に移管し、英学所と改称。
1876年(明治9年) - 愛媛県変則中学校と改称。
1877年(明治10年) - 愛媛県北予変則中学校と改称。
1878年(明治11年) - 愛媛県松山中学校と改称(この年を創立年とする)。
1884年(明治17年) - 愛媛県第一中学校と改称。
1887年(明治20年) - 愛媛県第一中学校を廃校。
1888年(明治21年) - (私立)伊予尋常中学校を開校。
1892年(明治25年) - (私立)伊予尋常中学校を廃校、愛媛県尋常中学校を開校。
1896年(明治29年) - 東予分校(現:愛媛県立西条高等学校)・南予分校(現:愛媛県立宇和島東高等学校)を開校。
1899年(明治32年) - 愛媛県松山中学校と改称。東予分校が愛媛県西条中学校、南予分校が愛媛県宇和島中学校として独立。
1901年(明治34年) - 愛媛県立松山中学校と改称。
1916年(大正5年) - 現在地に移転。
1934年(昭和9年) - 火災により本館・講堂その他焼失。
1942年(昭和17年) - 火災により本館その他焼失。
1945年(昭和20年) - 戦災により明教館、プールを除く全建物焼失。
1948年(昭和23年) - 学制改革により愛媛県立松山第一高等学校となる。通信教育部を設置。
1949年(昭和24年) - 愛媛県立松山東高等学校と改称。愛媛県立松山商業高等学校と統合し商業科を設置。
1950年(昭和25年) - 通学区制、男女共学を実施。
1952年(昭和27年) - 愛媛県立松山商業高等学校が独立し商業科を廃止。
主な施設と設備[ソースを編集]
第一教棟(本館)(事務室、保健室、職員室、校長室、音楽室、進路室、3年HR(ホームルーム)教室、音楽室、進路室、アリーナ等)
第二教棟(1・2年HR教室)
屋上には、松山地方気象台の風向・風速計、日射・日照計が2016年(平成28年)3月まで設置されていた。これは、松山地方気象台の西側、県知事公舎跡地に高層マンションが建設され、正確なデータが測定できなくなる恐れが出てきたため2006年(平成18年)12月に移転したものである。2016年からは松山市立桑原小学校に再移転している。2016年の夏に、近隣に建築されたマンションの住民との視線干渉対策として、教室北側の窓に白いスモークフィルムが貼り付けられている。
第三教棟(2・3年数学・英語講座用教室、通信制スクーリング用教室、コンピューター室、視聴覚室)
2・3年生の数学・英語講座や通信制課程の教室として使われている。なお、1学年11クラス時代は、第二教棟(20クラス分の教室)に収まりきらなかった2クラスも使用していた。
特別教棟(被服室、調理室、書道室、美術室、化学講義・実験室、生物講義・実験室、物理講義・実験室、地学講義室、地歴公民講義室)
冷暖房
1994年(平成6年)夏に発生した未曾有の「松山大渇水」のとき、図書館の冷房は水冷式であることが災いして使えなかった。
2005年(平成17年)度より全教室にエアコンが設置された。このためエアコン使用料が徴収されている。
本館新築工事[ソースを編集]
耐震性の確保を主な理由とし、2008年(平成20年)7月から本館の新築工事が行われた。同年8月までに旧本館の解体と新本館の着工が開始され、校長室を含む旧本館の全設備と1年生の3クラスが仮校舎に移動、残りの7クラスについては特別教棟や1学年11クラス時代に使用していた第三教棟の2教室などを充てて同年度は対処した(すなわち、この年度のみ3年生のクラスは第二教棟であった)。完成した新校舎の供用は2009年(平成21年)3月27日から開始され、ぬくもりのある環境とするべく木材を随所に使用し床はフローリング仕上げとしたため、校舎内は既存の建物を含めすべてのエリアが土足禁止となった。なお、耐震化工事は従来からの校舎にも施工されている。
新本館は既存の鉄筋コンクリート造4階建て延べ2,618m2を解体して跡地に建設。その規模は鉄筋コンクリート造3階建て延べ3,453m2で、3階の一部が体育館(592m2)である。完成後には既存の古い西体育館を解体して跡地にクラブハウスが建設された。
修学旅行[ソースを編集]
行き先には、昭和40年代後半からの伝統[1]である立山黒部アルペンルートに、近年は北海道,関東が追加されている(北陸新幹線開業後は、希望者が少ないアルペンルートと希望者が多い関東を統合して、アルペンルート経由で関東に行くこともある)。その他、国内へは沖縄行き、国外へは中国行きも設定されることがある。また、スーパーグローバルハイスクール(SGH)指定校となった2014年の入学生が2年生となる2015年からは、ロサンゼルス行きが新たに設定された。しかし、2019年にSGH事業満了となり、海外へ行く機会が減ることが懸念されたため、シンガポール行きが新たに設定された。(ロス班は存続)
校歌[ソースを編集]
洲之内徹(1930年(昭和5年)に松山中学を卒業)作詞、近衛秀麿作曲[2]。