愛国丸
愛国丸の公試中の船影。
愛国丸は南アフリカ向け航路に就航予定の貨客船として建造された。しかし、貨客船として就航することは一度もなかった。このときも船体はすでに、グレーに塗られている。[1]
基本情報
船種貨客船
クラス報国丸型貨客船
船籍 大日本帝国
所有者大阪商船
運用者 大阪商船
大日本帝国海軍
建造所玉造船所
母港大阪港/大阪府
姉妹船報国丸
護国丸
信号符字JZZN
IMO番号48519(※船舶番号)
建造期間977日
就航期間902日
経歴
発注1937年5月17日[2]
起工1938年12月29日
進水1940年4月25日[3]
竣工1941年8月31日
除籍1944年3月31日[4]
最後1944年2月17日被弾沈没(トラック島空襲)
現況ダイビングスポット
要目
総トン数10,437トン
純トン数6,126トン
排水量不明
全長160.8m
垂線間長152.25m
幅20.2m
深さ12.40m
高さ26.21m(水面から1・4番マスト最上端まで)
17.98m(水面から2・3番マスト最上端まで)
喫水8.8m
主機関三井製B&W式
愛国丸
昭和17年にシンガポールのセレター軍港に碇泊する愛国丸。
基本情報
艦種特設巡洋艦
特設運送船
艦歴
就役1941年9月5日(海軍籍に編入時)[4]
第二十四戦隊/呉鎮守府所管[4]
要目
乗員不明
兵装特設巡洋艦時
安式15cm砲8門(後に三年式14cm砲8門に換装)
九三式13mm対空機銃連装2基4門(後に九六式25mm連装機銃2基を増備)
六年式53cm連装水上発射管2基4門
特設運送船時
十年式12cm高角砲2門
九六式25mm連装機銃4基8門
装甲なし
搭載機特設巡洋艦時
九四式水上偵察機2機(1機は補用)(後に零式水上偵察機2機(1機は補用)に変更)
特設運送船時
なし
潜水艦用補給物資を搭載可能
1943年10月1日以降は特設運送船
徴用に際し変更された要目のみ表記
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愛国丸(あいこくまる)は、大阪商船が南アフリカ航路へ投入するために建造した報国丸級貨客船の2番船。日本海軍に徴用され、姉妹船報国丸と共に仮装巡洋艦に改造される[6]。太平洋戦争緒戦では南太平洋や[7]、インド洋で通商破壊を行った[8]。1942年(昭和17年)11月11日に報国丸が沈没[9]、愛国丸は生存者を救助した[注釈 1]。その後は輸送任務に投入され、1943年(昭和18年)10月から特設運送船となった。1944年(昭和19年)2月17日のトラック島空襲で沈没した[11]。 「愛国丸」は大阪商船がアフリカ東岸線用として優秀船舶建造助成施設により建造した3隻のうちの一隻である[12]。折からの物資難の時代にもかかわらず、「京都」と命名されたスイートルームなど最高の旅客設備が設けられた[13]。 1938年12月28日起工[14]。1940年4月25日に進水し、1941年8月31日に引き渡された[14]。 「報国丸」とは違って一度も商業航海に就くことはなく、竣工の翌日である1941年(昭和16年)9月1日に日本海軍に徴用された[13]。9月5日、特設巡洋艦とされ呉鎮守府所管と定められる[15]。 公試運転時、船体は徴用を念頭に所謂グレー系統の軍艦色で塗装されていたが、上部構造と船体には平時塗装と同様の白塗装と白線、煙突も黒と白の平時塗装が施され、この塗装について野間恒は「薄幸の娘に施した餞の化粧」という表現を使っている[16]。9月5日から10月15日にかけて、特設巡洋艦としての艤装が行われた[4]。 10月15日、「愛国丸」と「報国丸」からなる第二十四戦隊(司令官武田盛治少将)が新編され、連合艦隊直属となった[17]。司令官と両艦の艦長は海軍兵学校38期の同期であった[18]。第二十四戦隊は南太平洋方面の海上交通破壊を命じられた[19]。作戦海域には警戒が他よりは手薄と思われる南太平洋中部が選ばれた[20]。 11月15日に「愛国丸」と「報国丸」は岩国沖から出航し、ヤルートを経由して太平洋戦争開戦の12月8日[23]にはツアモツ諸島北東に達していた[24]。 12月13日、「報国丸」がアメリカ船「ビンセント (Vincent)」(6210トン)の煙を発見[25]。「ビンセント」は停船命令に従わずSOSを発信したが、砲撃を受けると停船して白旗を揚げた[26]。
艦歴
南太平洋での通商破壊