惣年寄(そうとしより)は、江戸時代に大坂・岡山・高知・堺・今井・平野・小倉・鹿児島などの町の町政を司った町役人の筆頭に位置する役職[1][2]。総年寄ともいい[1][2]、江戸の町の町年寄に相当する[1][2]。大坂の町にも町年寄はいるが、これは惣年寄の下に属するもので、町政の筆頭は惣年寄である[1]。目次 17世紀中ごろまでに成立した大坂三郷の町の行政を担当したのが、町人の中から選ばれた三郷惣年寄とその下に属する町役人であった。大坂三郷の統治は、大坂城代-大坂町奉行-惣年寄-町年寄-町民(町人・借家人)という体制で行われた[1]。 惣年寄は、元和元年(1615年)、松平忠明が大坂城の城主であった時に天満地子銀取立役の中から任命された元締衆が、元和5年(1619年)に大坂町奉行が設置された時に惣年寄と改称されたものである[1][3][4][5]。その際、各町の有力な町人を町年寄とした。惣年寄の多くは大坂の開発町人で、北組・南組・天満組で分かれており[6][4][5][7]、世襲制であった[1][7]。人数は当初は北組10人、南組6人、天満組5人であった[1][7]。この人数は時代によって変化し、3組で計10 - 20人前後であった[3]。惣年寄は名誉職で、給料は無いが、公役・町役の一軒役(後に五軒役)を免除され、年頭や八朔の礼銭・祝儀を受けた[1]。公役というのは惣会所経費・消防費などの諸費用の負担で、町役はそれぞれの町の町会所費用・橋の普請費用など町の運営費の負担のことである。 元締衆は、元和2年(1616年)に大坂城下で人望のある富豪を選び城下町の町割をさせ、水帳を作らせて地子を徴収させたのが始まりである。水帳というのは土地の面積・所有者等を記したもので、町ごとの繁盛の差異や経済力の差で等級をつけた[8][7]。 大坂三郷の町政は、惣年寄が実務を担当し、各町の町政を惣年寄に属する町年寄が取り行っていた[1][2][9]。 惣年寄の職務は、町奉行から伝達された触書・口達の下達、御用日の町奉行所への出仕と郷内の事項上申、諸役徴収と地子銀・地代銀・運上銀の上納、町年寄・町惣代・船惣代の任免・監督、火消人足の指揮、公事訴訟の調査上申、宗旨人別改めの管理、諸職仲間の人別調査など、町政全般にわたり[3][9][7]、万治元年(1658年)には三郷内の酒造米の調査も業務に加えられた。
1 大坂の惣年寄
1.1 惣年寄の起こり
1.2 惣年寄の職務
1.3 町代と惣代
1.4 時鐘の鋳造
1.5 明治維新後
2 平野の惣年寄
3 堺の惣年寄
4 今井の惣年寄
4.1 今井町の歴史
4.2 惣年寄の職務
5 岡山の惣年寄
6 高知の惣年寄
7 小倉の惣年寄
8 鹿児島の惣年寄
9 脚注
10 参考文献
大坂の惣年寄
惣年寄の起こり
惣年寄の職務