この項目では、かつて日本に存在した情報機関について説明しています。現在の日本に存在している情報機関については「内閣情報調査室」をご覧ください。
情報局(じょうほうきょく、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:情󠄁報局)は、第二次世界大戦当時の日本の内閣直属の情報機関である。戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課、以上の各省・各部課に分属されていた情報事務を統一化することを目指して、1940年12月6日に発足した。職員は情報官以上55名、属官89名の合計144名。
国内の情報収集、戦時下における言論・出版・文化の検閲・統制、マスコミの統合や文化人の組織化、および銃後の国民に対するプロパガンダを内務省・陸軍省・海軍省・大本営陸軍部・海軍部などと並行して行った政府機関である。
「内閣情報局」(ないかくじょうほうきょく)とも呼ばれるが、公式名称は「情報局」である[注釈 1]。中央情報局(CIA)や内閣情報調査室のようなインテリジェンス機関というより、ナチス・ドイツ政権下の国民啓蒙・宣伝省のような機関であった。 1932年の満州国建国に際して、アメリカから日本への非難が高まり、外務省は帝国主義的外交で名高い内田康哉外務大臣のもとで対外情報戦略の練り直しを迫られた。外務省情報部の白鳥敏夫はこれまでの陸軍省新聞班との経緯を水に流し、外務・陸軍(鈴木貞一ほか)・参謀本部(武藤章ほか)の局部長・佐官級による連絡会議「時局同志会」を結成する。 同志会は情報宣伝に関する委員会設置を決定。これにより結成された非公式の連絡機関「情報委員会」を前身として、1936年「内閣情報委員会」が設置される。内閣書記官長のもと政府各省庁と陸海軍の官僚により、公安維持のために積極的な情報統制や情報発信をする機関として活動したが、国内の統制ではなく外務省の対中国戦略がメインであった。 内閣官房を間に挟んで外務省と陸軍との綱引きが水面下で行われた結果1937年、「内閣情報部」に改められ、一元的な対外情報収集や対外宣伝活動が職務に加えられた。これは山本五十六海軍次官と須磨弥吉郎南京総領事の肝煎りだとされている[1]。1939年には「国民精神総動員に関する一般事項」がさらに加わり、国民に対する宣伝を活発化させ、それを担うマスコミ・芸能・芸術への統制を進めた。1940年には、帝国劇場を内閣情報部が庁舎として利用することとし[2]、演劇を提供する場を潰した。 1940年12月、第2次近衛内閣は内閣情報部を局に昇格させることを決定[3]。総力戦態勢を整備するため「挙国的世論の形成」を図る目的で情報局を成立させた。当初は内閣情報部に、外務省・内務省・逓信省・陸軍省・海軍省の情報・報道関係部門を統合させ情報収集・統制・発信の一元化をめざしたが、陸軍と海軍は、大本営陸軍部・海軍部に報道部を設置したほか、陸軍省には報道部、海軍省には軍事普及部を設置するなど、情報局への協力姿勢や権限移譲の意志がまるで無く、その結果、情報局は内務省警保局検閲課(旧図書課)の職員が大半を占めて、検閲の実務を遂行していた[注釈 2]。局舎は当初、接収した帝国劇場が充てられたが、1942年2月には三宅坂の参謀本部庁舎に移転しており、間もなく、霞が関の内務省庁舎5階(警保局のある階)に再移転している。 1945年4月に陸軍省・海軍省・外務省・大東亜省の報道対策・対外宣伝部門が情報局管轄下となった。この内、重要な部署である情報収集と調査を担当する第一部(企画)には海軍少将が、報道に関する全ての実権を握る第二部(報道)には陸軍少将がそれぞれ配属されたが、軍部は情報局を通さずに、大本営陸軍部・海軍部の報道部などを活用していたため、情報局は実質的に内務省の出先機関化していた。 降伏の3ヵ月後、年末に廃止された。 トップには親任官で、民間から人材を求め任命された総裁、下に次長を置き、その下に第一部(企画 - 情報収集、調査)、第二部(報道 - 新聞、出版、放送)、第三部(対外 - 宣伝、報道、文化活動)、第四部(検閲)、第五部(文化 - 映画、演劇、芸術等)および官房を置いた。さらに後日、第四部と第五部は統合、簡略化され、1944年には戦時資料室(国内動向と敵国動向の調査)を置いた。 なかんずく重要なのは第二部(報道)で、内閣情報部所管の「新聞雑誌用紙統制委員会 下部組織として半官半民の組織や外郭団体、マスコミ関係の会社など多数の組織を擁していた。
沿革
任務および組織
国策遂行の基礎たる事項に関する情報蒐集、報道および啓発宣伝
内務省警保局の検閲(日本における検閲参照)業務の引き継ぎ。
新聞紙その他の出版物に関する国家総動員法第二十条に規定する取締と処分(掲載の制限または禁止)
ラジオなどの放送無線、電話による放送事項に関する指導及び取締
映画・蓄音機レコード・演劇・演芸の国策遂行の基礎たる事項に関する啓発宣伝上必要なる指導および取締
関係機関
日本新聞会
日本出版会
情報局は紙の配給権を掌握しており、新聞・出版物の言論統制をすることが可能であった。美術・出版の仕事をする者は情報局の指揮下に入るか、さもなければ軍需工場に徴用工として配属されるか、徴兵に応じ召集されるかのいずれかである。1940年頃には情報局の指揮下にある直属の関係機関がつくられた。
画家・写真家は印刷会社や新聞社などに所属することになり、従軍画家・従軍写真家として徴用され、満州や南方戦線へ派遣された者も多い。戦地ではカメラフィルムより画家のスケッチのほうが安価であるとして、悲惨な光景を描かされた者もいた。作成・撮影された作品及び写真はすべて情報局より検閲が行われ、検閲「不許可」となれば没収された。「不許可」が度重なると、処分の対象とされることもあった。
物資の統制と同時に平和工作物の制作禁止がなされており、戦争協力を拒んで特別高等警察に逮捕されたり「非国民」のレッテルを貼られたりする事を恐れた多くの文学者、芸術家、ジャーナリストらが、進んで、あるいは時局に流され不承不承、情報局の宣伝活動に協力し戦争画や軍歌、ルポルタージュなど多くの作品を残した(情報局傘下の組織に加入しなければ制作活動が許可されず、紙や文具、絵具等の必要な物資も供給されなかったためである)。
情報局の統制に反発し、投獄され拷問を受けたり活動を中断した者も当初は少なからずいたが、結局は新聞・出版にも芸能界・芸術界にも統制の締め付けに反発する運動は出ず、むしろ紙などの統制物資の割り当てやより大きな機会を求めて情報局に擦り寄り、協力する者の数が圧倒的に多かった。この点では情報統制、言論統制をマスコミに従わせることで、国民への思想統制をすみやかに行うという目的が達せられた。
但し、『陸軍』(監督木下惠介)のように、情報局の求める展開を踏襲しつつも戦争がもたらす別離といった現実を(当局が不許可を出せぬように巧みな表現で)描いた作品もある。
戦後処理