悼王 熊疑
楚
第17代王
王朝楚
在位期間前402年 - 前381年
都城郢
姓・諱熊疑
諡号悼哲王[1]
生年不詳
没年悼王21年(前381年)
父声王
悼王(とうおう)は、悼哲王(とうてつおう)ともいい、中国の戦国時代の楚の王。姓は?、氏は熊。諱は疑[2]。粛王、宣王の父。 楚の声王の子として生まれた。声王6年(紀元前402年)に声王が賊に暗殺されたため、その後を嗣いで楚王に即位した。 悼王2年(紀元前400年)、趙・魏・韓の三晋の軍が楚に侵攻してきたが、三晋の軍は乗丘まで進軍して撤退した[3]。悼王3年(紀元前399年)、鄭に楡関を返還した[4]。悼王4年(紀元前398年)、楚の郎荘平君が軍を率いて鄭に侵攻した。鄭の皇子・子馬・子池・子封が軍を率いて楚軍を迎撃しようとした。しかし楚軍が氾を渡り会戦しようとすると、鄭軍は蔑に逃げ込んだ。楚軍は蔑を包囲し、鄭軍とその4将軍を降伏させた。楚軍が郢に凱旋すると、鄭の太宰欣がまた鄭で反乱を起こし、鄭の駟子陽
生涯
この頃、魏では将軍の呉起が宰相の公叔(中国語版)と対立し、武侯とも折り合いが悪くなって出奔し、楚を頼った。悼王は呉起を宰相に任用した。呉起は国政や軍制の改革をおこない、軍の強化を図ったが、楚の門閥貴族たちとの対立を深めた[6]。
悼王21年(紀元前381年)、薨去した[3]。王の死後まもなく、呉起は反対派の貴族ら70余家の軍に襲われ、悼王の遺体の前で射殺された。王の遺体にも矢が突き刺さっていたという[6]。悼王の子の粛王が王位を嗣いだ[3]。
脚注^ a b 『清華簡』「繋年」23章
^ 『史記』楚世家による。同書六国年表では、類とする。
^ a b c d 『史記』楚世家
^ 『史記』六国年表
^ 『清華簡』「繋年」23章による。『史記』楚世家ではこの年に楚が周を攻撃したとするが、『史記会注考証』が指摘するように周は鄭の誤りとみられる。『史記』六国年表では、楚は鄭を攻撃し鄭を包囲した、鄭人が駟子陽を殺したとしている。
^ a b 『史記』孫子呉起列伝