悼公(とうこう、紀元前586年 - 紀元前558年)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前573年 - 紀元前558年)。襄公の曾孫(祖父は桓叔捷
、父は恵伯談)にあたり、即位する前まで周の王都・洛邑で学問を積んでいたことから公孫周、または周子と呼ばれた。連環画「求む孤、救う孤」の悼公の肖像画欒書と荀偃(中行偃)によって詞が殺されると、晋に迎えられて君主となった。文公の治世を理想とし、韓厥や智?を正卿に、魏絳を中軍司馬に、羊舌?(叔向)を世子の彪(後の平公)の傅とするなど、賢者を任用し内治を整え[1]、諸侯と会盟し狄と和を結ぶなど、?陵の戦い以来、晋に傾いていた覇権を磐石なものにしたが、29歳で死去した。
晋の最後の名君と謳われたが、悼公の時代は鄭や楚、秦などとの戦いが続き戦果は芳しくなく、国内では公室の力が弱まり大夫や貴族たちの力が増大した。
脚注^ 『春秋左氏伝』成公18年
表
話
編
歴
晋の第30代君主(前573年-前558年)
唐叔虞
晋侯燮
武侯
成侯
詞
靖侯前858-前841
釐侯前840-前823
献侯前822-前812
穆侯前811-前785
殤叔前784-前781
文侯前780-前746
成師(桓叔)の曲沃就封で、晋は翼の宗家と曲沃の分家に分裂
翼宗家
昭侯前745-前739
孝侯前739-前724
鄂侯前723-前718
哀侯前717-前710
小子侯前709-前706
晋侯緡前706-前679断絶
曲沃分家
桓叔前745-前731
荘伯前731-前716
武公前716-前678
曲沃の武公が翼の晋侯緡を滅ぼし、晋が再統一される
武公前678-前677
献公前676-前651
奚斉前651
卓子前651
恵公前650-前637
懐公前637-前636
文公前636-前628
襄公前627-前621
霊公前620-前607
成公前606-前600
景公前599-前581
詞前580-前573
悼公前572-前558
平公前557-前532
昭公前531-前526
頃公前525-前512
定公前511-前475
出公前474-前457
哀公前456-前438
幽公前437-前420
烈公前419-前393
孝公前392-前378
静公前377-前376
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