悲劇の十日間
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悲劇の十日間
メキシコ革命

メキシコシティYMCAで戦うフェリックス・ディアス派の反乱軍

時1913年2月9-19日
場所メキシコシティ
結果マデロ大統領とピノ・スアレス副大統領の暗殺、ウエルタの大統領就任

衝突した勢力
マデロポルフィリオ
レイェス派
フェリックス派
指揮官
ラウロ・ビジャル
アンヘル・オルティス・モナステリオ
ビクトリアーノ・ウエルタ(2月9-12日)
アンヘル・ガルシア・ペーニャ
フェリペ・アンヘレスフェリックス・ディアス
ベルナルド・レイェス
マヌエル・モンドラゴン
アウレリアーノ・ブランケット
グレゴリオ・ルイス
ビクトリアーノ・ウエルタ(2月12-19日)
アメリカ合衆国ヘンリー・レーン・ウィルソン
被害者数
5,500人が死亡
ビクトリアーノ・ウエルタが戦闘中にマデロ派から反マデロ派に移る
反乱軍の砲撃を受けた国立宮殿ソカロと首都の道路に死体が残された。マヌエル・ラモス撮影[1]

悲劇の十日間(ひげきのとおかかん、スペイン語: Decena Tragica)は、メキシコ革命中の1913年2月9日から2月19日にかけてメキシコシティで発生した一連の事件を指す。前大統領の甥にあたるフェリックス・ディアス(英語版)将軍およびベルナルド・レイェス(英語版)将軍に率いられた反乱軍が、在メキシコのアメリカ合衆国大使であるヘンリー・レーン・ウィルソン (Henry Lane Wilson) の助けを借りて、民主的に選出されたフランシスコ・マデロ大統領を打倒するために首都で武力衝突を起こした。

マデロ大統領側の主要な将軍であるビクトリアーノ・ウエルタは反乱軍側へ寝返った。このクーデターによってマデロおよび副大統領のホセ・マリア・ピノ・スアレスが逮捕された。1911年のポルフィリオ・ディアス大統領がそうであったように、マデロとピノ・スアレスが亡命できる可能性もあったが、彼らは1913年2月22日に殺害された。ウエルタ将軍がメキシコ大統領に就任し、大部分の州知事の支持を受けた。しかしウエルタのクーデターと殺人に対する広範な憎悪によって、メキシコ北部および南部において政府軍と革命勢力の間の内戦が引きおこされた。

マデロが殺害されたことは大方のメキシコ市民にとって衝撃的であり、また新しいアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンがウエルタ政府の承認を拒絶する原因になった。メキシコの一般庶民はこの十日間に辛酸をなめた。戦闘はメキシコ連邦軍の対立する派閥同士で発生し、またマデロ政府に対する襲撃と防御という形で行われたものの、砲火によって戦闘と無関係な市民に大きな被害が発生し、首都の中心部の資産に大きな損失が発生した。
ポルフィリオ・ディアス政権打倒からマデロの大統領就任まで

1910年大統領選の不正を糾弾する暴動の後、ポルフィリオ・ディアスは1911年5月に大統領を辞任して亡命した。フランシスコ・レオン・デ・ラ・バーラが短期間臨時大統領をつとめ、1911年11月の選挙でフランシスコ・マデロが大統領に選出された[2]

しかしながらマデロはまもなく支持を失い批判にさらされることになった。保守派は彼がポルフィリオ・ディアスを追い出したことを許さず、その一方で大土地所有の解体といった政策をマデロが実行しなかったため、マデロ支持者は彼に幻滅した。

マデロの任期1年めだけで4つの反乱が発生した。モレロス州で1911年11月に発生したサパタの反乱はフェリペ・アンヘレス (Felipe Angeles) 将軍によって抑止されたが、鎮圧されることはなかった。チワワ州では1912年3月にパスクアル・オロスコの反乱が発生し、ビクトリアーノ・ウエルタに敗北したものの、彼を支持するコロラドス(赤旗派)は勢力を保った。ヌエボ・レオン州で1912年12月に発生したベルナルド・レイェス将軍の反乱とベラクルス州で1912年11月に発生したフェリックス・ディアス将軍の反乱は壊滅され、2人の将軍はメキシコシティで投獄された。

ディアスとレイェスの2人の将軍はマデロ政権の転覆を計画し、作戦にウエルタを加えようとしたが、彼を参加させる充分な動機を与えることができなかった。反乱が始まった後にウエルタは秘密裏に計画に加わった。アメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフト政権の大使であるヘンリー・レーン・ウィルソンはマデロ政権打倒のために積極的な役割を果たした[3]:98-99。
十日間悲劇の1日目にあたる1913年2月9日のフランシスコ・マデロ大統領。ヘロニモ・エルナンデス撮影[4]

マデロ政権に反対するマヌエル・モンドラゴン (Manuel Mondragon) 将軍はトラルパンの軍事学校の士官候補生に反乱への参加を呼びかけた。2月9日(日)、士官候補生たちはメキシコシティの刑務所の前に集結し、フェリックス・ディアス将軍の釈放を要求した。短い協議の後に(司令官は殺された)ディアスは釈放された[5]:234。次に彼らはサンティアゴ・トラテロルコ軍事刑務所に行き、レイェス将軍を釈放させた。午前7時30分、レイェスは士官候補生と兵士をともない、馬に乗って国立宮殿へ向かったが[5]:235、銃撃を受けて落馬して死亡した。この最初の戦闘で400人の市民が死亡し、1000人以上が負傷した。軍司令官のラウロ・ビジャル将軍は銃弾で鎖骨が折れ、軍事大臣のアンヘル・ガルシア・ペーニャは腕を銃弾が貫通した[6]:284。

現場から3マイル離れたチャプルテペク城に住んでいたマデロ大統領は、午前8時に報告を受け、馬に乗って町に入った。ビジャルとペーニャが負傷したため、当時休養中のビクトリアーノ・ウエルタ将軍が事に当たることを申し出、受理された[5]:235。ウエルタは首都軍の司令官に任命された。

フェリックス・ディアス将軍はレイェスの死の知らせを聞いてアメリカ大使ヘンリー・レーン・ウィルソンに連絡を取った。ディアスはレイェスより上手に立ちまわり、国立宮殿から数ブロック離れた町の造兵廠であるシウダデラにこもった。ここには充分な弾薬があり、反乱軍は国立宮殿へ向けて砲撃を開始した[7]:119。

同日夕刻、マデロは隣のモレロス州の州都であるクエルナバカへ行き、当時サパタ軍と戦っていたフェリペ・アンヘレス将軍と会談した。その夜マデロとアンヘレスは鉄道を使って武器や弾薬を積んで首都に戻った。翌朝までにマデロは1000人の兵士を集めた[8]

2月10日(月)には大きな動きはなかった。マデロはアウレリアーノ・ブランケット (Aureliano Blanquet) 将軍に1200人のトルーカの軍を国立宮殿に派遣するように電報を打った。マデロはまたアンヘレスが首都軍の司令官になることを求めたが、まだ議会によって将軍に任命されていないことを理由に反対された。元の臨時大統領フランシスコ・レオン・デ・ラ・バーラは大統領と反乱側の仲介を申し出たがマデロは拒絶した[7]:119。

2月11日(火)の午前10時ごろウエルタは造兵廠の砲撃をはじめたが、反乱軍は強く反撃し、国立宮殿と造兵廠の間の町は重い損害を被った。ウエルタはローマ地区でフェリックス・ディアスとひそかに会見し、この時にウエルタはクーデター支持にまわることを宣言した。これによってマデロ側の戦力は弱体化された。コアウイラ州知事のベヌスティアーノ・カランサはマデロにサルティーヨに逃げるよう申し出た[7]:119-20。

2月12日(水)、ウィルソン大使は流血を引きおこした責任が反乱に対してさっさと降伏しないマデロにあると主張した。スペインも同意見であり、イギリス・ドイツも賛成した。これに対してオーストリア・日本・およびブラジル・チリ・キューバを含むすべてのラテンアメリカ諸国の代表は政府がその権威を保つことは正当であり、外国の外交官が内政に介入するのはお門違いだとした。ダウンタウンの砲撃は続き、兵士・馬・非戦闘員の死体は路上に放置され、食料は欠乏した[7]:120。

2月15日(土)、ウィルソンはスペイン、イギリス、ドイツの大臣を大使館に招いた。スペインの大臣は国立宮殿を訪れて大統領が辞任すべきだというのが彼らの統一した意見であると伝えた。マデロは外交官が内政に介入することは認められていないと答えた。同日ウィルソンはドイツの大臣とともに休戦交渉のために国立宮殿を訪れた。


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