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「悲しい酒」
美空ひばり の シングル
B面真実一路(オリジナル盤)
あの丘越えて(1991年・1992年盤)
哀愁波止場(1998年盤)
哀愁出船(2003年盤)
リリース1966年6月10日(オリジナル盤)
1991年7月1日(CDシングル)
1992年8月21日(カセットテープ)
1998年6月20日(カセットテープ)
2003年8月20日(CDシングル)
ジャンル歌謡曲
レーベル日本コロムビア
作詞・作曲石本美由起(作詞)
古賀政男(作曲)
美空ひばり シングル 年表
夾竹桃の咲く頃
(1966年)悲しい酒
(1966年)雨にぬれても
(1966年)
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悲しい酒(かなしいさけ)は、1966年6月10日に発売された美空ひばりのシングル曲である。 美空ひばりの代表曲の一つであり、石本美由起作詞、古賀政男作曲による。 メロディーは「影を慕いて」と同様に「美しき天然」から流用している。145万枚を売り上げるミリオンセラーとなり[1]、美空ひばりの全シングル売上では第3位となっている[1]。また、1966年の『第17回NHK紅白歌合戦』では紅組のトリとして本曲が歌唱された。 元々はひばりへの提供曲ではなく、1960年6月に発売された北見沢惇 北見沢は1954年、松竹に第3期ニューフェイスの俳優として入社。声の良さを買われ、1959年に松竹の音楽監督だった木下忠司の紹介で日本コロムビアと契約。師匠に船村徹を充てて『街路樹』で歌手デビューし、スター候補生として「シャープ・ガイ」のキャッチフレーズもつき、2か月ごとに新曲を出すなど力を入れたが、全く売れず、一方で自信過剰から酒・暴力・女性トラブルなど荒んだ生活を送った。そのことが船村や会社の耳に入り、一転して整理対象の候補となった。 最後のチャンスとして提供された『悲しい酒』は、北見沢にとっては再起をかけて必死で歌った一曲であったが、結局ヒットに至らず巷間に埋もれた。結局北見沢は契約を打ち切られ、再び荒んだ生活を送ることとなった。 その後、当時コロムビアの所属だった北島三郎によるカバーも試みられ、実際にレッスンも行ったが、レコーディングの直前に日本クラウンの発足に伴う同社への移籍が決まったことで立ち消えとなった。北島はひばりへの配慮もあり、当初は公表しないつもりだったが、取材結果をスタッフから聞かされたことから、「そこまでお調べになったのなら」とテレビ番組のインタビューに応じてその経緯を公表した[2]。 古賀の弟子だったアントニオ古賀も志願してこの曲に挑戦し、仮歌のレコーディングを行ったが、出来上がりを聴いて下手だと感じたことで断念し、古賀はしばらく封印して見合った歌唱力のある歌手を待つことにした[2]。 1966年になり、北見沢バージョンの編曲者だった佐伯は、美空ひばりに提供する曲がなかなか決まらないコロムビアのディレクター・雨森康次から相談を受け、当時コロムビアの関係者に北見沢の消息が伝わっていなかったこともあり、カバー曲であることを伏せた上での『悲しい酒』の提供を作曲者の古賀政男に提案し、古賀もこれを承諾[2]。佐伯が再アレンジを行い、ひばりによってレコーディングされ、1966年6月10日にシングルとして発売されるに至った。 ひばりは、本曲を気が進まないままレコーディングしたという[3]。 後年、カバー曲であることや北見沢が既に他界していることをスタッフから恐る恐る告げられたひばりは、「そうだったの。みんなで私を騙していたんだ」と意に介さない様子で笑っていたという[2]。 初発時のシングルには間奏部分のセリフがなく、後にセリフ入りのバージョンが制作され、1967年3月に発売されたコンパクト盤「美空ひばりの悲しい酒」に収録された。セリフはひばりからの要望で、作詞の石本によって一晩で書き上げられたという[4]。
概要
前史
ひばりへの提供