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「凶悪」はこの項目へ転送されています。2013年の日本映画については「凶悪 (映画)」をご覧ください。

「惡」はこの項目へ転送されています。アルバムについては「惡 (アルバム)」をご覧ください。
5つある辟邪絵の中の1つには、八部衆の1人で悪を退治する栴檀乾闥婆が描かれている。大江山酒呑童子源頼光主従 (歌川芳艶浮世絵江戸時代)。

悪(あく)は、一般的な意味では、の反対または欠如である。非常に広い概念であることもあるが、日常的な使い方では、より狭い範囲で深い邪悪さを表現することが多い。それは一般的に、複数の可能な形をとると考えられている。例えば、悪と一般的に関連している個人的な道徳的悪、または非個人的な自然的悪(自然災害または病気の場合のように)の形や、宗教的思想においては悪魔的または超自然的/永遠的な形などである[1]

悪は重大な不道徳を意味することもあるが[2]、一般的には、人間の状態を理解する上で何らかの根拠がないわけではなく、そこでは争い苦しみ(cf.ヒンドゥー教)が悪の真の根源である。ある宗教的文脈では、悪は超自然的な力と表現されてきた[2]。悪の定義はさまざまであり、その動機の分析もさまざまである[3]。個人的な悪の形態と一般的に関連する要素には、怒り復讐恐怖憎悪心理的トラウマ、便宜主義、利己主義無知破壊または無視を含む不均衡な行動が含まれる[4]

悪は、とは反対の二元的な敵対的二元論として認識されることがある[5]。その場合、善が勝ち、悪は打ち負かされるべきとされる[6]仏教の精神的影響力を持つ文化では、善と悪の両方が対立的な二面性の一部として認識されており、それ自体は成仏によって克服されなければならないものとされる[6]。善と悪に関する哲学的な問題は、善と悪の性質に関するメタ倫理学、どのように行動すべきかに関する規範倫理学、特定の道徳的問題に関する応用倫理学という3つの主要な研究領域に包含されている[7]。この用語は、行為主体を伴わない事象や状況に適用されるが、この記事で扱う悪の形態は、悪人またはその実行者を想定している。

宗教や哲学の中には、人間を記述する際に悪の存在や有用性を否定するものもある。
日本語における「悪」

日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、江戸時代初期に権勢を振るった以心崇伝はその強引な政治手法により「大欲山気根院僭上寺悪国師」と評された。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。[独自研究?]

本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となった。一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。

古事記』において、「悪事」は「マカゴト」と読ませる(古代の解釈では、悪の訓読みは「マカ・マガ」となる)。対して、「善事」は「ヨゴト」と読む。現代では、マガゴトの漢字は「禍事」を当て、ヨゴトは「吉事」の字を当てていることからも、古代の感性では、禍(か)=災い=悪という図式ということになる。

なお現在の日本での悪概念は、西欧の価値観に近いものとはなっているが、依然として相違を含んでいる。
善と悪

悪はと対比される。

人間が善悪を意識、判断する場面は様々だが、家庭での躾から、教育スポーツ法律など、秩序を必要とするあらゆる場面で見出せる。生活に即したものとして宗教で、娯楽や伝承として物語の上で取り上げられることも多い。その際は、善をすすめ悪を除外すること(勧善懲悪)、善と悪との対決などがしばしば注目される。

善と悪は解釈や判断によって入れ替わる場合もあるため、規範という形で存在するものは、このような混乱を避けるためによく用いられる手段なのだ。
社会心理学
純粋悪の神話

社会心理学者のロイ・バウマイスターは、一般の人の悪に関する素朴的な理解に基づく過度に誤った悪の認識を「純粋悪の神話」と表現している[8]。バウマイスターによると、純粋悪の神話には主に8つの特徴がある。
悪とは他人を意図的に傷つけることである

悪人は人を傷つけることを楽しんでいる

被害者は潔白で善良な人である

悪人の加害者は私たちとは違う人間である

悪人は一貫して悪人である

悪とは社会に混乱をもたらすことである

悪人の加害者は利己主義である

悪人の加害者は自制心が劣っている

1番目の特徴は、子供の漫画から戦時中のプロパガンダまで他人を傷つけることを強調されていることである。2番目の特徴は、実際の現実ではほとんど見られることはない。被害者がする説明では悪人が笑っていた、楽しんでいたなどと強調されるが、悪人からの説明ではそういったことが示されることはない。これは、被害者が純粋悪の神話の影響を受けていることが考えられる。3番目の特徴も現実ではほとんど見られるものではない。実際の多くの殺人事件では、加害者と被害者がお互いに挑発しあって、それがエスカレートしていくことで、殺人が生じる場合は多く見られる。もちろん、善良で潔白な人に対して無差別の暴力は確かに生じてはいるが、それは私達がマスコミから得る情報から考えているよりは稀である。4番目の特徴は、私達のような人がひどい犯罪を犯すとは考えたくないという欲求が反映されている。具体的にはナチスの医者はまっとうな人間とは思われておらず[9]、また、戦争中の日米双方で相手側は劣等人種とみなしていたために、相手を悪魔化することが助長されたという分析もある[10]。さらに子供向けの漫画の悪人は基本的に外国語なまりの英語で喋る[11]。5番目の特徴は、現実では多く見られるものではなく例外の可能性が高い。映画でも時間の経過とともに悪くなっていった人は見られず、最初から悪人であるとされる。また、現実でもスターリンヒトラーポルポトといった人物に対しても、私たちは「そういったひどく邪悪な人間がどうやってそんな大きな権力を手に入れたのか」と考えるが、「どんな経験によって彼らは悪人になってしまったのか」とは考えない。6番目の特徴は、1番目の特徴と代替的なもので、悪とは混沌であり平和や調和、そして安定を喪失させたり妨害するものであるというものである。7番目と8番目の特徴は今までの特徴とは異なり、現実では確かにその傾向が見られて真実に近いが、過度に強調されているという。
悪の根本原因

多くの研究が統合されると、悪には4つ(正確には3つ半)の基本的な原因が挙げられる[8]。それらは道具性、自己中心性に対する脅威、理想主義、サディズムであり、被害者の立場からだといくつか違いが見られる。前者2つに関しては、お金を渡したり悪人の自尊心を満たせば暴力などを回避することができるが、理想主義の場合は打つ手が少なく、サディストが相手の場合はどうしようもない。
道具性

邪悪な行いの多くは悪いことそれ自体を目的としたものではなく、他の目的(金、土地、権力、セックス)を達成するための単なる手段としてなされている。この目的を達成するにあたって合法的な手段で達成することが出来ないときに、人は暴力を行う。例えば、テロリストは自身の要求が投票法制度を通じて実現することはないとわかっているのでテロを行い、知識社会では知能が低い人は金や他の報酬を手に入れる方法が限られており、悪行に手を染める。暴力に関する研究者は、暴力的な手段は長期的な目標達成には有効でないことを論じてきたが、短期的な観点では暴力は確かに効果的なものである。

道具性の暴力は、進化前の段階の名残として考えられる[12]。人間を含む社会的な動物では資源分配をめぐる社会的衝突が生じ、支配的で攻撃的な個体であるアルファオスが多くの報酬を得ることができる。そのため、種内攻撃は社会生活に対する適応として生じた可能性がある。しかし、人間は文化を発展させて、争いや紛争を解決する代替の非暴力的な手段(お金、法廷交渉妥協投票)を生み出してきた。最近の調査でも長期的には対人暴力の発生は減少している。ただし、時に私達は攻撃性に後退してしまい、特に文化的な方策が自分にはきちんと機能していないと感じる人の間で攻撃性は生じやすいとされる。
自己中心性に対する脅威

かつて暴力の研究においては、悪人は自尊心が低いというのが標準的な知見であったが、バウマイスターが実際に文献をチェックしてみると、悪人はむしろ高い自尊心、時には過度に高い自尊心を持っていた[13]


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