悪魔が来りて笛を吹く
著者横溝正史
発行日1973年2月20日
ジャンル小説
国 日本
言語日本語
ページ数472
コードISBN 4041304040
ISBN 978-4041304044(文庫本)
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『悪魔が来りて笛を吹く』(あくまがきたりてふえをふく)は、横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。『宝石』に1951年11月から1953年11月まで連載された作品。単行本は1954年5月8日岩谷書店より刊行。
1954年に「第7回探偵作家クラブ賞」候補にノミネートされた[注 1]。
本作を原作とした映画2本・テレビドラマ5本・ラジオドラマ1本・舞台1作品が、2018年7月までに制作された。また、影丸穣也とJETにより漫画化されている。 探偵小説雑誌『宝石』において、1951年(昭和26年)11月から1953年(昭和28年)11月まで連載された。 大戦後の混乱の時期、『黒猫亭事件』と『夜歩く』の事件の間頃に起きた事件とみなされている[注 2]。戦前まで栄華を誇った貴族の没落、さらに近親相姦というインモラルかつタブー視される性関係を濃厚に描写し、そこに生じた悲劇と愛憎劇を密に描いた作品である。帝銀事件や太宰治の『斜陽』などの要素を取り込み、横溝が得意とした田舎の因習とはまた異なった陰惨さや、本格推理小説の定番「密室殺人」を扱い、他作品とは異なった雰囲気をかもし出し、作者の人気作品のひとつとなっている。 作者は本作を「金田一もの自選ベスト10」の6位に推している[注 3]。 この物語が始まるきっかけとなった事件で、1947年(昭和22年)1月15日午前10時ごろ、宝石店「天銀堂」[注 4]で「保健所から伝染病予防のために来た」と称する男が、店員全員に毒薬を飲ませて殺傷し、宝石を奪ったというもの。実在の事件である帝銀事件の被害者を郊外の銀行から銀座の宝石店に変更して借用している。帝銀事件は日本で初めてモンタージュ写真を捜査のために用いたことでも知られ、この点もこの作品に取り入れられている。 横溝正史が雑誌『宝石』の求めに応じて本作の第1稿を起したのは1951年(昭和26年)9月のことで、完結篇を書きあげたのは2年後の1953年(昭和28年)の同じ9月のことだった。「時日も20日前後のことで、稿を起した日も、書き上げた日も、ともに、秋雨のしとど降る日であったと憶えている」と振り返っている[6]。 この小説が完結するまでまる2年と1か月を要したのは、『宝石』に合併号が出たり横溝が病気休載したりしたことからで、このため連載回数は計21回とかなり長いものとなった。連載終了と同時に城昌幸編集長からは単行本化の慫慂をうけたというが、連載の長さと雑誌の都合で1回の枚数が違ってきたりしたため、テンポに狂いがありそうな気がした横溝はひとまず保留していた[6]。 しかし、一度書きあげたものに手を加えるのは容易でないことと、読みなおしてテンポにそれほど狂いがなかったので、ごく僅少の手を加えるのみで1954年(昭和29年)3月に単行本化することにした。横溝は「こんなことならもっと早く出版してもよかったのにと、いまさらながら苦笑ものである」と述懐している[6]。 横溝によると、本作のテーマの胚種が頭に芽生え始めたのは、1948年(昭和23年)8月に岡山の疎開地から成城に帰って間もないころのことだという[6]。そのころ、横溝邸を訪れた葛山二郎から、葛山が帝銀事件(同年1月26日発生)の犯人のモンタージュ写真に似ている、として容疑者として密告されて困った、という話を聞かされる。同じころ、某子爵が失踪し、その後に自殺体で発見されるという事件[注 5]があり、その子爵もやはりモンタージュ写真と似ていたため取り調べを受けたことがある、と報じられた。このことから横溝は、モンタージュ写真の人物Xと似ている人間A、同じく似ている人間Bがいたとすると、AとBも互いに似ている(A=X B=X ∴A=B)、というアイデアを思いついた[7]。このとき『宝石』誌上で『落陽殺人事件』の題名で予告を行っている。しかし、うまくまとまらず、連載は開始されなかった[6]。探偵小説を考える場合に、『本陣殺人事件』や『獄門島』のように、まずトリックを先に考えて、あとからそれにふさわしいシチュエーションを構成していくやり方と、『犬神家の一族』のように先にシチュエーションができたものがあるが、いずれにしても最初の一行を書く前に両方がまとまっており、それがうまく溶け合っていなければ、しっかりとしたものが書けない。ところが、本作においてはシチュエーションはあらかたできあがっており、トリックも一番大きなものだけはあるが、このトリックとシチュエーションを結び付けるところで脳細胞がサボタージュを起こしてしまい、不本意ながら連載を延期せざるを得なくなってしまった[8]。「担当者武田武彦君には大きな迷惑をかけてしまった」と振り返っている。その後もあたため続けていたこのテーマが結実しはじめたのは、昭和26年夏のことだった[6]。 夏のことで、硝子戸を開けっぱなしにして横溝が物思いにふけっていると、夜毎フルートの音が聞こえてくる。家人に聞くと、「隣家の植村さん[注 6]の御令息泰一君が練習していらっしゃるのだ」ということだった。横溝はこのときの様子を、「隣家といってもテニス・コートひとつへだてているのだから、相当はなれているのだが、そして、それだけ離れて聞いているのでいっそう身にしみてよかったのだが」とし、「私はこのフルートの音に魅了されたのである」と語っている[6]。 このフルートの音と『落陽殺人事件』のテーマを結び付けることを思い立ち、本作の第1弾とした横溝は、息子に命じて上述の植村泰一が練習しているフランツ・ドップラーの『ハンガリー田園幻想曲』のレコードを買ってこさせ、何度か聞いた上に泰一にも聞いてもらった。また息子の友人でフルート作曲に興味を持っている笹森健英にも来てもらって、両者からいろいろとフルートの知識を受けた[6][注 7]。 このとき横溝は笹森に『悪魔が来りて笛を吹く』の曲を作曲してもらって、適当なところへ譜面を挿入するつもりだった。ところが横溝いわく「付け焼刃の悲しさには、フルートについてとんでもない錯誤を演じてしまい、しかも雑誌連載中そこを訂正すると、いっぺんにトリックが暴露する恐れがあるので、結局、譜面を挿入することは見合わせなければならなくなった」という。その後その部分は単行本化にあたって訂正されたが、結局譜面挿入は諦めている[6]。 横溝が「フルートについてとんでもない錯誤を演じてしまい」と語っているのは、右手と左手を間違って書いてしまったことである。横溝は最後に楽譜を付けようと作曲を頼んだところ、笹森に「右手[注 8]の指2本ないんじゃ作曲しようがない」と言われたといい、「途中でそう言われたんでガッカリしちゃってね、途中から左でしたって書くわけにもいかないもんね」とこの失敗を笑っている。
概要
天銀堂事件
横溝正史による解説
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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