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僧兵(そうへい)とは、日本の古代後期から中世、近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。目次 京都・奈良の大寺院の雑役に服する大衆(堂衆)が自衛武装したもの。法師武者あるいは武装した僧侶を僧衆、悪僧と同時代[いつ?]でいうが、それを江戸時代以降「僧兵」と呼称した言葉である。ちなみに悪僧の「悪」は悪党の悪と同じで「強い」という意味合いである。主に寺社勢力に所属する武装集団である。その風貌は絵巻物などに描かれ、裹頭
1 概要
1.1 南都北嶺
1.2 その他
2 関連書籍
3 関連項目
4 外部リンク
概要
僧兵や神人が活躍した時代は社会が乱れる一方で、広大な寺領・神領を経営する立場にある寺社は、盗賊のみならず、国府や権門・在地領主らの武装勢力など、さまざまな勢力との紛争を抱えることとなった。よって境内と荘園の治安維持や他勢力への対抗のため、他の荘園と同様に寺院・神社も武装する事になった。
平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺・延暦寺・園城寺(三井寺)、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえした。特に、興福寺(南都)は衆徒(奈良法師)、延暦寺(北嶺)は山法師と呼ばれた。宗教的権威を背景とする強訴は僧兵の武力以上の威力をもち、しばしば朝廷や院を屈服させることによって、国府や他領との紛争を自らに有利に解決させた。また寺社同士の抗争も激しく、しばしば焼き討ちも行われた。延暦寺と園城寺(「山門」と「寺門」)の抗争などが著名である。白河法皇は、自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。
中央から離れた地域でも有力寺社は軍事力を持ったり地元軍事力と結びつき、当時のパワーバランスに大きな影響を及ぼしていた。[独自研究?]以仁王の挙兵では平家とも争う。『平家物語』の武蔵坊弁慶などにも、その描写がみられる。源平の争乱の時には熊野水軍を取り仕切っていた熊野別当にたいし双方から政治的な取引がなされた例などが著名である。
室町時代に、かつて義円と名乗り天台座主だった足利義教が、僧兵の軍事力と粗暴さを熟知しているため、延暦寺討伐に動き出して大規模の弾圧を実施した(後年の織田信長も同様のことをやっている)。
各地の有力寺社が軍事力を保持する傾向は豊臣秀吉による刀狩まで続いた。戦国時代の有力僧兵団として以下の例がある。 東北地方 関東地方 北陸地方 東海地方
南都北嶺
興福寺・・・奈良法師と称された多数の僧兵を抱え大和一国を治める実力を持つに至る。戦国時代は織田信長と同盟を結びながら、勢力を維持し続けた。宝蔵院流槍術の開祖・胤栄なども有名。
延暦寺・・・天台宗の開祖・伝教大師最澄が開山した。王城鎮護の霊山として君臨しながら、山法師と称された数千人の僧兵を擁したが、1571年に織田信長による比叡山焼き討ちに遭い、以後軍事力を喪失した。
その他
出羽三山・・・修験道場として隆盛し、最盛期には8千人の僧兵を擁した。豊臣秀吉の刀狩りに応じて武具を供出。
恵日寺 (福島県磐梯町)・・・真言宗豊山派の寺院で、3000人ともいわれる僧兵を擁し、実質的に会津を支配下に置いていた。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、軍事力を喪失した。
日光山輪王寺・・・多数の僧兵を抱え、下野でも有数の武装勢力になる。後北条氏に荷担したため、豊臣秀吉により弾圧され、寺領を没収され衰退。関東に移封された徳川家康の保護により、勢力を回復する。
白山平泉寺・・・延暦寺末寺として、最盛期には8千人の僧兵を抱えて越前に勢力を伸ばす。天正2年(1574年)、一向一揆との抗争で全山が焼失。勢力が弱まる。織田信長、豊臣秀吉と早くから結び、寺領を回復する。
石動山天平寺・・・真言宗の寺院で、山岳信仰の拠点霊場として栄えた。3千にも及ぶ僧兵を抱えた能登有数の勢力であった。1582年(天正10年)本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、前田利家、佐久間盛政、長連龍らの織田軍に焼き討ちされ、壊滅した。
真宗大谷派井波別院瑞泉寺・・・一向宗の寺院で、越中一向一揆の拠点であった。天正9年(1581年)、織田信長の北陸方面軍、佐々成政の焼き討ちに遭い、軍事力を喪失した。
勝興寺・・・一向宗の寺院で、越中一向一揆の拠点であった。瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが、天正9年(1581年)に石黒成綱に焼き討ちされ、軍事力を喪失した。
尾山御坊・・・一向宗の寺院で、加賀一向一揆の拠点であった。織田信長の北陸方面軍、佐々成政に敗れ、軍事力を喪失した。
吉崎御坊・・・一向宗の寺院で、加賀・越中などの門徒を集め北陸における一向一揆の拠点となったが、永正3年(1506年)、九頭竜川の戦いで朝倉宗滴に敗れ、勢力を失った。
諏訪大社・・・武田信玄に制圧され、軍事力を喪失した。大名家としては江戸時代に再興したが、神官家とは分かれることになった。
浅間大社・・・武田信玄による駿河侵攻に巻き込まれる。武田を相手に頑強に抵抗したが、穴山信君を通して降伏し、軍事力を失った。
本證寺 (安城市)・・・一向宗の寺院で、三河一向一揆の際には上宮寺・勝鬢寺などとともに一向宗門徒の拠点の1つとなり徳川家康に対して頑強に抵抗したが、1564年の小川の戦いで敗れ勢力を失った。
照蓮寺・・・一向宗の寺院で、帰雲城・城主内ヶ島氏と手を結んだことにより照蓮寺の勢力は拡大し、全盛期には大名に匹敵するほどの大勢力を築いた。三木氏の後に飛騨国を治めた金森長近はそれを恐れ、1588年(天正16年)、高山城城下に移転させるなどの弾圧政策を取り、勢力を失った。
願証寺・・・一向宗の寺院で、長島一向一揆の拠点として伊勢湾一帯を治める大勢力であった。織田信長に対して3度に渡って激しく抵抗したが、天正2年(1574年)の第三次長島侵攻で激戦の末に壊滅した。