恵那郡
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}

令制国一覧 > 東山道 > 美濃国 > 恵那郡

日本 > 中部地方 > 岐阜県 > 恵那郡
岐阜県恵那郡の位置(薄黄:後に他郡に編入された区域 水色:後に他郡から編入した区域)

恵那郡(えなぐん)は、岐阜県美濃国)にあった
郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。

恵那市の大部分(飯地町・笠置町河合を除く[1]

中津川市の大部分(山口[2]・馬籠[2]・神坂[3]を除く)

瑞浪市の一部(陶町)

愛知県豊田市の一部(須渕町浅谷町三分山町・上切町・下切町・上中町・下中町・島崎町・一色町)

なお、701年大宝元年)に制定された大宝律令で、日本国内は国郡里制の三段階の行政組織に編成された時には、現在の長野県木曽郡の全域も含んでおり、美濃国内で最大の面積を有する郡であったが、下記の区域は含まれていなかった。

中津川市加子母の一部(小郷・小和知)

恵那市中野方町と、笠置町(河合・姫栗・毛呂窪)(正保年間(1645年?1648年) - 姫栗村と毛呂窪村の所属が加茂郡から恵那郡に変更。)

愛知県豊田市の一部(上切町・下切町・上中町・下中町・島崎町・一色町)

江戸時代以前

前述のどおり、
鎌倉時代初期ぐらいまで、現在の美濃側の中津川市加子母の小郷・小和知は、大威徳寺領として飛騨国大野郡を経て益田郡に属していた。

室町時代まで野原村は、三河国加茂郡足助荘仁木郷であったが、この地域を支配する領主が、隣接する美濃国の明知遠山氏へ娘を嫁がせる際に、野原村を美濃国恵那郡に化粧料として割き与えたと伝えられている。

江戸時代以後

慶長6年(1601年)の「美濃一国郷牒」には、蛭川村・福岡村・高山村・田瀬村・下野村・上野村は加茂郡と記述されている。

元和元年(1615年)の「美濃国之内郷帳」に加茂郡加志母村、元和二年(1616年)の「美濃国村高御領地改帳」にも加茂郡加志母村の記述がある。恵那郡沿革考の一「加子母村の往古」に加子母は元は加茂郡なりと、然れども確証を得ず。との記述がある。

恵那の語源

恵那山伊弉冉命天照大神を生んだ際の胞衣(えな = へその緒)を納めた地とされ、胞衣(えな)→恵奈→恵那と変化した。 
恵奈郡から恵那郡へ

905年延喜5年)、醍醐天皇の命により 藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は 藤原忠平が編纂に当たった延喜式には恵奈郡と書かれており、平安時代中期の和名類聚抄拾芥抄にも恵奈と書かれている。和名類聚抄では恵奈郡六郷に淡気(たむけ)・安岐(あぎ)・繪上(えなのかみ)・繪下(えなのしも)・坂本(さかもと)・竹折(たけおり)が挙げられており、この頃の郡域は現在の恵那市(飯地・笠置を除く)・中津川市(加子母北部を除く)・瑞浪市の陶地区および現在の長野県木曽郡全域であったと考えられる[4]。また延喜式には目次の表示・非表示を切り替え中川神社、坂本神社、恵那神社の三社が記されている。江戸時代の 1651年(慶安4年)に完成した正保国絵図には恵那郡と書かれているが、 元禄以後にまた恵奈郡に戻された。明治になって恵那郡という表記に定められた。

奈良県飛鳥池遺跡から見付かった677年12月(天武天皇6年)の木簡に「土岐評恵奈五十造阿利麻」とあることから(「評」は「郡」の意味)、この木簡の書かれた677年の時点では恵奈郡がまだ成立していなかったことが明らかであり、同郡の成立は8世紀初め頃と推定される。

750年天平勝宝2年)4月22日 美濃国司解(東南院文書)に「恵奈郡繪下郷」とあり。

木曽も含んでいた古代から近世 古代恵奈郡(注:この地図には瑞浪市陶町が恵奈郡に含まれていないことと、恵那市飯地が恵奈郡に含まれていること、鳥居峠と境峠以南の木曾全体が恵奈郡に含まれていない3点が誤りである)

702年大宝2年)に「始めて美濃国の岐蘇山道を開く」と続日本紀に記されているのが岐蘇(木曽)の史料上の初見であるが、このとき木曽路を開通させたのは美濃国の役人たちであったため、木曾谷は美濃国に含まれた。はじめ美濃国恵奈郡繪上郷に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。

9世紀後半の、貞観年中の859年?876年に天皇の勅命により、朝廷より藤原正範と靭負直継雄が派遣され、両国の国司と現地に臨んだ。この時の正範らの報告によると、「もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曾谷の村落)は美濃国恵奈郡繪上郷の地域にあり、和銅6年(713年)に美濃守笠麻呂らが、ここに吉蘇路を開通させた(三代実録)。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府(松本市)のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がない。その理由で美濃と信濃の両国の国司立ち会いの上で国境を「懸坂上岑」(木祖村と旧奈川村との境界で木曽川の水源から北にある境峠)と定め、吉蘇・小吉蘇両村を恵奈郡繪上郷の地と裁断。それでこの報告にしたがって、木曾谷を美濃国と決めた。」という。当時は、境峠を越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである[5]。しかし平安時代末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。

平安時代中期の拾遺和歌集には、源頼光の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ』という和歌がある。

信濃地名考という文献には、木曾が信濃国に移管されたのは、平安時代の延喜年間(901年 - 923年)と記されている。

文正元年(1466年)11月1日、木曾家豊興禅寺 (長野県木曽町)に寄進した梵鐘の鐘銘に刻まれている内容は、『壇心離有作々 金匠到無切功 鐘聲廣大 伽藍興隆 群生睡破 利濟無窮 美濃州 慧那郡 木曾庄 萬松山 興禅々寺 住持比丘大壇那 源之朝臣家豊 于時文正元年 丙戌霜月一日』とある。

美濃国恵奈郡であった木曾全域が信濃国に移った時期について、信州大学人文学部の山本英二教授が長野県木曽郡大桑村定勝寺の古文書の回向文の中から年代が分かる5点で、延徳3年(1491年)には、美濃州恵奈郡木曽庄とあるが、永正12年(1515年)には、信濃州木曾荘と書かれているので木曾が美濃国恵奈郡から信濃国へ移ったのは1491年から1515年の間と結論付けた。

木曾古道記には木曽川より東側にある定勝寺の天文18年(1549年)作の鐘銘には信州木曾庄と書かれてあるのに対し、木曽川より西側にある興禅寺にある承応2年(1653年)作の鐘銘には美濃国恵那郡木曾庄となっていることを述べた上で、天正以来の記録に木曽川より東を信濃国筑摩郡、木曽川より西を美濃国恵那郡と分けていたが、享保9年(1724年)に木曽川の東も西も信濃国筑摩郡木曾と定められたと記されている。

寛文9年(1669年)木曾代官の山村甚兵衛より尾張御領宛、木曽の所属について提出した書状によると、「然ハ御家中城侍在所持御書出候様ニと今度自公儀被仰出候付 当福島ハ濃州恵那郡之内ニ候哉 信州之内ニ候哉 先年絵図公儀ヘ上申候時分聞被成度候間得其意存候 当地興禅寺ニ有之候鐘銘ニハ恵那郡と有之候ヘ共 是ハ古ニ詮儀無覚束存候 木曽ハ信州之物と申唱 先年木曽絵図ニハ信州之内共 濃州之内共断書ハ不仕其地ヘ絵図指上申候 其節承及候ハ信州一国之絵図ハ 真田伊豆守殿 濃州一国絵図ハ岡田将監殿より一枚絵図ニ御認め 公儀ヘ上申由ニて殿様[尾張徳川家]御領分も美濃之絵図ハ将監殿[美濃代官]ヘ被遣 木曽絵図ハ伊豆守殿[松代城主]ヘ派遣候由承及申候然共聢(しか)と覚不申候 此段ハ其御地ニて如可申と存候 左と御座候ヘハ 木曽ハ弥信濃絵図に入可申と存候」とある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:68 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef