恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院[1]。山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院である。甲斐武田氏の菩提寺として知られる[2]。
恵林寺の歴史[ソースを編集]
恵林寺の創建[ソースを編集]
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。
恵林寺は甲斐における臨済宗の中心となり、古先印元、青山慈永、龍湫周沢や絶海中津らが勅命を奉じて輪番住持となる。後には足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられた。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。
戦国時代の恵林寺[ソースを編集]
甲斐武田氏と恵林寺[ソースを編集]
戦国時代に恵林寺は武田晴信(信玄)により再興される。天文10年(1541年)には臨済宗妙心寺派の明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)が28世として招かれる[3]。明叔慶浚は飛騨国の国司・姉小路氏の被官である三木直頼の義兄で、美濃大圓寺(岐阜県恵那市岩村町)の住職であった[3]。明叔慶浚は景堂玄訥の法嗣で、晴信に招かれるまで駿河国の今川義元に招かれ駿府の臨済寺(静岡県静岡市)住職として駿河に滞在していた[3]。明叔慶浚は天文16年(1547年)に武田領国となった信濃伊那郡の那恵寺に招かれるが、飛騨へ戻ると禅昌寺(岐阜県下呂市)を再興した[3]。
天文13年(1544年)には第29世として鳳栖玄梁(ほうせいげんりょう)が入寺し、開山派の僧として初の住職となった[4]。鳳栖玄梁は岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく、甲府長禅寺住職)・希菴玄密(きあんげんみつ)の法兄で、天文15年(1546年)には積翠寺(甲府市上積翠寺町)における晴信主催の連句会にも出席している[4]。
『葛藤集』によれば、永禄6年(1563年)には、明叔慶浚と同様に美濃大圓寺の住職であった希菴玄密が恵林寺と継続院両寺の住職として招かれる[5]。希菴玄密はこれに応じるが、恵林寺に入寺するとすぐに弟子の快川紹喜に住職を譲り、大円寺へ戻った[5]。希菴玄密の甲斐における足跡では、同年5月には大井夫人13回忌の香語を読んでおり、永禄10年(1567年)には武田家御一門衆の穴山信君の求めに応じ、信君の父である穴山信友の肖像に讃文を寄せている[5]。
永禄7年(1564年)には武田氏により寺領が寄進された。永禄7年(1564年)11月に美濃崇福寺から快川紹喜が招かれる[6]。快川紹喜は美濃土岐氏の一族で、臨済宗妙心寺派・開山派の仁岫宗寿の弟子[6]。快川紹喜は天文22年(1553年)にも恵林寺へ入山し、天文24年(1555年)5月7日には信玄の母・大井夫人の年忌を務めており、この翌年に美濃へ戻り崇福寺住職となっていた[6]。
快川紹喜は恵林寺住職となると、恵林寺を信玄の菩提寺と定めているほか、美濃斎藤氏と武田氏との外交関係にも携わっている[7]。『武家事紀』によれば、天正3年(1575年)4月には武田勝頼が喪主となり信玄の三年秘喪明りの葬儀が行われ、快川紹喜は導師を務める[8]。七回忌法要の際には香語「天正玄公仏事法語」を読んでいる[7]。快川紹喜は勝頼の代にも政務顧問的な役割を果たしている[8]。
武田氏滅亡と恵林寺[ソースを編集].mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに信長公記の「恵林寺御成敗之事」原文があります。ウィキソースに甲乱記の「恵林寺炎滅并織田信長の事」原文があります。
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)により武田氏は滅亡する。武田氏滅亡後、織田氏は恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するが、寺側が拒否したため織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって恵林寺は焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と、『碧巌録』第四十三則の偈を発して快川紹喜は火定したといわれる。後代には快川の遺偈(ゆいげ)として広く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。一方で、これは『甲乱記』では快川と問答した長禅寺僧高山と問答した際に高山が発した言葉で同時代の記録においては見られず、近世には臨済宗の編纂物において快川の遺偈として紹介されており、佐藤八郎は快川の遺偈でなく後世の脚色である可能性を指摘している。
同年6月には本能寺の変により信長が討たれ、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱を経て三河国の徳川家康が甲斐を領する。