恵公 姫朔
衛
第16代/第18代公
王朝衛
在位期間紀元前699年 - 紀元前696年
紀元前688年 - 紀元前669年
都城朝歌
姓・諱姫朔
諡号恵公
生年不詳
没年紀元前669年
父宣公
母宣姜
恵公(けいこう、紀元前?年 - 紀元前669年)は、衛の第16代および第18代君主。宣公の子。 宣公の子として生まれる。 宣公18年(前701年)、兄の太子?と姫寿の死に伴い、姫朔が太子に立てられた。
生涯
恵公2年(前698年)12月、恵公は宋の鄭攻めに参加し、斉や陳とともに鄭の牛首(鄭の邑)を占領し、翌年(前697年)も鄭に侵攻した。
恵公4年(前696年)、1月と4月に恵公は鄭を討つための会合に出席した。11月、恵公の叔父である左公子洩と右公子職は、恵公が太子?殺害に関与していたことを怨み、恵公を攻撃し、太子?の弟である黔牟を衛君に立てた。攻撃された恵公は斉へ出奔した。
その8年後(前688年)6月、恵公は斉の襄公の援けを得て諸侯軍とともに黔牟を撃ち、左公子洩と右公子職を誅殺してふたたび衛に返り咲いた。
恵公25年(前675年)、恵公は周が黔牟をかくまっていることを怨み、燕とともに周を攻撃した[1]。周の恵王が温(現在の河南省温県南部)へ逃亡したので、衛と燕は恵王の弟である?(たい)を周王に立てた。
恵公29年(前671年)、衛と燕によって追い出された恵王が鄭によって戻され、?は誅殺された。
恵公31年(前669年)5月、恵公が卒去し、子の姫赤が立って衛の君主(懿公)となった。
脚注^ 『史記』衛康叔世家では黔牟のために周へ侵攻したとあるが、『史記』周本紀や『左氏伝』では「周で辺伯・石速・・父・子禽・祝跪の五人の大夫が叛乱を起こし、燕と衛の軍を招き寄せて恵王を撃った」とある。
参考資料
『春秋左氏伝』(桓公十三年?十五年、荘公六年、十九年、二十五年)
司馬遷『史記』(衛康叔世家第七)
表
話