恭譲王 王瑤
高麗
第34代国王
王朝高麗
在位期間1389年12月2日 - 1392年7月31日
諡号恭譲大王
生年至正5年2月5日
(1345年3月9日)
没年洪武27年4月17日
(1394年5月17日)
父王鈞
母国大妃王氏
王后・王配順妃盧氏
子女下記参照
陵墓高陵
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恭譲王(コンヤンワン、きょうじょうおう、王瑤 ワンヨ、おうよう(1345年3月9日 - 1394年5月17日)は、高麗の第34代国王である(在位:1389年 - 1392年)。第20代神宗の子の襄陽公王恕の六代の孫。諡号は恭譲大王。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂(朝鮮の太祖)により高麗王として擁立された。後に李成桂に禅譲し、李成桂の命令で子供とともに殺された。 玄祖父は始安公王?(襄陽公王恕の子)。高祖父は西原侯王瑛。曾祖父は益陽侯王?。祖父は淳化侯王?。父は定原府院君王鈞。母は国大妃王氏。妃は昌成君盧?の娘の順妃盧氏[1]。 1374年に恭愍王が殺され、?王(辛?)が即位した。政界では倭寇(前期倭寇)平定に功のあった李成桂や崔瑩らが台頭し、対明政策における対立から、李成桂は1388年にクーデター(威化島回軍)を行い、?王の子の王昌(辛昌)を即位させ、1389年には王昌は正当な王位継承者ではない偽王として殺害し、恭譲王を擁立する。 恭譲王3年(1391年)に科田法が公布される。また同年に楮貨流通政策が決定したが施行前に高麗王朝が滅亡する。 恭譲王から李成桂への譲位を防ごうとした鄭夢周[2]らは李成桂派に殺され、1392年に恭譲王は李成桂に王位を譲り[3]、杆城に追放となる。1394年に謀叛の計画があるとして、王命による刺客により配流先の三陟で子とともに殺された。また、高麗王室一族は、流刑中、乗っていた船を沈められてことごとく溺死した。こうして高麗王朝は滅亡し、李成桂による朝鮮王朝がはじまった。 参考として家系図を示す。赤色部分が恭譲王である。全体は高麗王系図を参照。 忠宣王26
略歴
家族関係
父:定原府院君 王鈞(生没年不詳)
母:国大妃王氏(生没年不詳)- 王族出身で、25代忠烈王の子の江陽公王滋の孫娘で、延徳府院大君王?の娘。
兄:定陽君 王?(??1397年)
妃:順妃盧氏(??1394年)- 夫や子供達と共に殺害された。母方の祖母の慶寧翁主は王族出身で、24代元宗の曾孫娘。
長男:定城君 王?(??1394年)- 父即位と共に世子となる。1391年に仁川李氏から世子妃を迎えているが、翌年に両親と共に殺害される。子女は無し。
長女:粛寧宮主(生没年不詳)
次女:貞信宮主(??1421年以降)- 外孫女に李氏朝鮮4代王世宗の三男の安平大君の妻の迎日鄭氏。
三女:敬和宮主(生没年不詳)
参考系図(高麗王第26代から34代まで)
(忽都魯掲里迷失) 世子 王鑑
(懿妃 也速真) 龍山元子
(曹国長公主金童) 忠穆王29
(徳寧公主 亦憐真班)
忠粛王27
(懿妃 也速真) 忠恵王28
(明徳太后) 忠定王30
(庶子 禧妃尹氏)
徳興君 王ォ
(塔思帖木児)
(未詳) 釈器
(銀川翁主 林氏)
恭愍王31
(明徳太后) 王?32
(般若[4]) 王昌33
(謹妃)[5]
益陽侯 王? 淳化侯 王? 定原府院君 王鈞 恭譲王34 世子 王?
瑞興君 王? 宝城君 王熙
以下多数省略 3人以下多数省略 定陽君 王?
ほか子2人省略
脚注[脚注の使い方]^ 恭讓王諱瑤定原府院君鈞之子神宗七世孫 母曰國大妃王氏忠穆王元年二月五日生 初封定昌府院君 辛昌元年十一月丁丑大護軍金佇與?謀作亂事覺下佇獄戊寅遷?于江陵
^ 李成桂の子の李芳遠(後の李氏朝鮮の太宗)が率いる軍によって殺された。具体的に殺害したのは李芳遠の部下の趙英珪。
^ 禅譲・簒奪・推挙などの表現方法の違いがある。
^ ?王は正当な王と認められていないので、王?もその妃にも追封がない。したがって庶名になっている。
^ 昌王は正当な王と認められていないので、王昌もその妃にも追封がない。したがってこのような名になっている。
関連項目
高麗王
朝鮮の君主一覧
表
話
編
歴