この項目では、朝鮮語の恨について説明しています。仏教の恨については「恨 (仏教)」をご覧ください。
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出典検索?: "恨"
恨
各種表記
ハングル:?
漢字:恨
発音:ハン
ローマ字:Han
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恨(ハン[1])は、朝鮮文化においての思考様式の一つで、感情的なしこりや、痛恨、悲哀、無常観をさす朝鮮語の概念。歴史学者の古田博司は朝鮮文化における恨を「伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望」[2]と説明している。しかし実際には、人を恨めば自身が楽になるという意味で使われる事が多い。歴史でみても序列で下の者や他国に擦りつける性質がみられ、現代でもそういった民族性が認められるため、自虐として使う者も稀に見られる。 この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2018年11月) 朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれ[3]や妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は「恨の文化」とも呼ばれる。 現代的なポストコロニアルアイデンティティとされる[4]。 韓国大統領を務めた金大中は、著書『金大中哲學與對話集??建設和平與民主』のなかで、以下のように述べている[5]。 「韓国の文化は「恨」の文化です。私たちの民族は憂患と苦難の民族であり、「恨」は挫折を味わった民族の希望、「恨」は挫折を味わった民族の夢を実現するための準備なのだと思います。確かに私たちは、歴史のなかで「恨」とともに生きてきたことは事実です。…しかし、常に自分自身を慰め、励まし、その結果、未来に向かって生きていくことができた。私たちの民族は、畑の雑草のように、踏みつけられ、そして蘇る。 …韓国人は2000年間、文化的アイデンティティを捨てなかった。…韓国人は、大きな苦難に耐え、あらゆる方法で忍耐してきた。」 『金正日和朝鮮統一之日』(平壌外文出版社
定義
邵毅平(復旦大学)は、「恨」とは、要するに弱者の哲学、内向性の哲学であり、個人・国家が「恨」をかき集めることで、強者に抵抗する勇気を見出そうとしたものであり、「恨」を通じて、近隣の大国である中国と日本の圧力に抵抗しようとした、と指摘している[5]。
上述の金大中の例のように、恨は古来からの朝鮮民族固有の感情だと説明されることは現在でも一般的である。しかしながら、心理学や民俗学、社会学などの学際的研究の進展とともに、恨は日本統治時代の朝鮮の植民地的言説から生まれた「創られた言説」に過ぎず、民族固有の感情ではないという見解も現れている[6]。 朝鮮人は、自らを中華文明に勝るとも劣らない歴史をもつ優秀な民族であり、世界で最も純粋な血統をもつ民族だと信じている。欧米文化の影響を受けてきた韓国人の大多数でさえ、韓国人よりも北朝鮮人の方が血統の純粋な朝鮮民族だと考えており、このような認識が、韓国人コミュニティの閉鎖性と外国人嫌悪を助長している[5]。B・R・マイヤーズ
歴史
概要