恒藤恭
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恒藤 恭
つねとう きょう
1956年度大阪市立大学入学式にて
人物情報
生誕井川 恭
(1888-12-03) 1888年12月3日
日本島根県松江市
死没 (1967-11-02) 1967年11月2日(78歳没)
日本京都府京都市
出身校京都帝国大学法学部
立命館大学(博士)
学問
研究分野法哲学
研究機関大阪市立大学京都帝国大学
主な業績法的人格者の理論
主な受賞歴従三位
勲二等
旭日重光章
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恒藤 恭(つねとう きょう、1888年明治21年〉12月3日 - 1967年昭和42年〉11月2日)は、日本法哲学者。大阪市立大学名誉教授法学博士従三位勲二等旭日重光章学士院会員

芥川龍之介の親友、戦前における日本の代表的法哲学者として著名。また、京都帝国大学法学部教授時代に滝川事件で辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授(物理学)、恒藤武二(1919年8月31日 - 1998年4月29日)は同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。
生涯
大学卒業まで

島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。文学少年で、島根県立第一中学校(後の松江北高等学校)時代から雑誌に随筆、短歌、俳句などの投稿を始める。「消化不良症」で体調が悪化し、中学卒業後3年間の療養生活を送る。療養中、小説「海の花」で『都新聞』(東京新聞の前身の一つ)の懸賞一等に当選し350円の懸賞金を得、「井川天籟」の筆名で『都新聞』に連載された。懸賞金を得た恭は神戸市の神戸衛生院に1ヶ月半入院し、後に『白樺』最年少同人となる郡虎彦と出会う。

健康を回復した恭は、1910年に父・精一の死を経て、文学を志し上京、都新聞社文芸部所属の記者見習となる。第一高等学校の入学試験に合格し、第一部乙類(英文科)に入学。第一部乙類の同期入学には芥川龍之介久米正雄松岡讓佐野文夫、同年齢の菊池寛らもいた。ちなみに入学後に一高で聴いた徳冨蘆花の「謀叛論」に大きな影響を受けている。2年生になり寮で同室となった芥川龍之介、長崎太郎、藤岡蔵六、成瀬正一らと親交を深めた。恭は一高時代も投稿を続け原稿料を稼いだ。少年雑誌『中学世界』には大学院時代まで「鈴かけ次郎」の筆名で投稿を続けている。またこの時期は思想的には、ロシア文学やフランス文学などの影響とともに、ベルクソンを中心としたいわゆる、「生」の哲学の影響を色濃く受けていると言える。

1913年、一高第一部乙類を首席で卒業、京都帝国大学法科大学政治学科に入学。恭は文科から法科への進路変更について、芥川との交流で自身の能力の限界を知ったとのちに述べている。京都帝大では佐々木惣一の影響を受けた。芥川とは文通による交流が続いた。芥川の勧めで第三次『新思潮』に載せるジョン・M・シングの「海への騎者」 (Riders to the Sea) を翻訳した。また、失恋で失意にあった芥川を故郷の松江に招いている。
法哲学者として出発

1916年11月に恒藤規隆の長女・まさと結婚、婿養子になり恒藤姓となる。恒藤規隆は日本最初の農学博士の一人で、沖大東島(ラサ島)で燐鉱石を発見しラサ島燐礦合資会社(後のラサ工業)の設立人物である。


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