恒吉 忠道(つねよし ただみち、1861年7月14日(文久元年6月7日[1][2])- 1918年(大正7年)4月10日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 伊予国(現愛媛県)出身[1][2][3]。伊予松山藩士・恒吉忠吉の長男として生れる[1]。陸軍幼年学校を経て、1882年(明治15年)12月、陸軍士官学校(旧5期)を卒業し歩兵少尉に任官して歩兵第8連隊付となる[1][2][4]。1887年(明治20年)12月、陸軍大学校(3期)を首席で卒業した[1][2][3]。 1888年(明治21年)12月、第4師団副官となり、参謀本部第1局出仕、陸軍戸山学校教官、ドイツ駐在、第4師団参謀、混成第11旅団参謀、参謀本部第1部員を務め、1896年(明治29年)11月、歩兵少佐に昇進し陸大教官に就任[1]。1901年(明治34年)1月、参謀本部員となり、清国駐屯軍参謀、同軍参謀長を務め、同年11月、歩兵中佐に進んだ[1][2]。
経歴
栄典
1902年(明治35年)2月20日 - 正六位[6]
親族
長女 ヤス(日野熊蔵歩兵中佐の妻)[5]
正岡律(先妻、正岡子規の妹)
脚注^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸海軍総合事典』第2版、104-105頁。