この項目では、明治天皇皇女の昌子内親王について説明しています。朱雀天皇皇女の昌子内親王については「昌子内親王」をご覧ください。
恒久王妃 昌子内親王
竹田宮妃
1909年(明治42年)
続柄明治天皇第6皇女子
全名昌子(まさこ)
称号常宮(つねのみや)
身位内親王 → 王妃内親王
敬称殿下
お印鶴
出生1888年9月30日
日本・東京府
死去 (1940-03-08) 1940年3月8日(51歳没)
日本・東京府
配偶者竹田宮恒久王(1908年 - 1919年)
子女竹田宮恒徳王
佐野禮子(禮子女王)
父親明治天皇
母親園祥子
栄典勲一等宝冠章
役職婦人共立育児会
恒久王妃 昌子内親王(つねひさおうひ まさこないしんのう、1888年〈明治21年〉9月30日 - 1940年〈昭和15年〉3月8日)は、日本の皇族。竹田宮恒久王の妃。明治天皇の第6皇女子。母は園基祥伯爵令嬢・園祥子。旧名は、昌子内親王(まさこないしんのう)、諱は昌子(まさこ)、御称号は常宮(つねのみや)、お印は鶴であった。
大正天皇は異母兄、昭和天皇は甥、上皇は大甥、今上天皇は曾姪孫にあたる。また作家で憲法学者の竹田恒泰の曾祖母である。 1888年(明治21年)9月30日、父帝の明治天皇第6皇女子として誕生。母は園祥子。明治天皇の子女は皇太子(大正天皇)を除き夭折しているため、事実上の長女にあたる。 すぐ下の妹・房子内親王(後の北白川宮妃)ともに、高輪御殿で養育される。幼少時の御養育掛は佐佐木高行、国文学者阪正臣、華族女学校教授・帝室技芸員の野口小蘋、華族女学校学監の下田歌子らが任命された。特に佐佐木夫妻を慕い、後々まで「ジジ」「ババ」と呼んだ。 1904年(明治37年)、日露戦争の折りには、姉妹で全戦没者の氏名・没地等を直筆で書いた名簿を御殿の一室で祀っていた。その後、この直筆の名簿は靖国神社に奉納されている。 1908年(明治41年)、6歳年上の竹田宮恒久王と結婚。結婚に際し、東京・高輪に邸宅が建設されたが、設計者は赤坂離宮を手がけた事で知られる片山東熊で、後に西武グループに売却され、高輪プリンスホテルの洋館となり、結婚式などで利用される事となる。 恒徳王、禮子女王をもうけたが、1919年(大正8年)、恒久王にスペイン風邪で先立たれる。 宮家を継いだ恒徳王がまだ幼少だった為、昌子大妃は恒徳王(及び宮家)を支えるとともに、婦人共立育児会
生涯
旧竹田宮家の雛と雛道具その他合わせて92点が寄贈された。
そのうち雛人形と雛道具は、昌子内親王が御成婚の際、持参した有職雛(束帯雛)一対と1912年(明治45年)、明治天皇と昭憲皇太后より「お年玉」として贈られた雛道具64点から成る。雛人形は江戸時代以来の有職故実を踏まえた格調高いもの、また菊紋唐草蒔絵の雛道具は当時漆器を扱っていた木屋本店(現在の日本橋木屋の本店であった)で調製されたものであり、品格高い塗りとミニチュア道具として非常に精巧な造りは江戸時代当時「家よりも高い雛道具」と言われた江戸の雛道具の流れをくむものであった。
(根津美術館図録「ひなかざり」、是澤博昭著「決定版日本の雛人形」より)昌子内親王(右)と房子内親王(左)。昌子内親王は海軍の女性用の軍服を着ている。 昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914)
その他
1924年頃の久邇宮朝融王婚約破棄事件に於いては「御内定とは云へ、一旦御勅許になりたることは容易に御改めになるべきものにあらず」と発言している。
神奈川県の走水神社にある石碑に弟橘媛が入水の時に詠んだ歌が記されているのは昌子内親王によるもの。
平塚八幡宮に社殿の前に松を御手植、神池に緋鯉を放生した。
年表
1888年(明治21年)9月30日 明治天皇第6皇女子として誕生
1908年(明治41年)4月30日 竹田宮恒久王と成婚
1909年(明治42年)3月4日 恒徳王誕生
1910年(明治43年)6月5日 弟橘媛命記念碑建設
1919年(大正8年)4月23日 恒久王薨去
1940年(昭和15年)3月8日 薨去
系図
子女無し
葉室光子 (1853-1873)
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 )
橋本夏子 (1856-1873)
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 )
明治天皇(第122代天皇)
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 )
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 )
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇)
柳原愛子 (1855-1943)
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 )
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 )
千種任子 (1856-1944)
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 )
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 )
常宮昌子内親王
竹田宮恒久王