恐怖政治
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恐怖政治(きょうふせいじ)とは、

投獄殺戮などの苛烈な手段によって、反対者を弾圧して行う政治のこと[1]。(フランス語: terreur)[2]

フランス革命時にロベスピエールを中心とするジャコバン派山岳派)が行った統治のこと[1]:la Terreur、:Reign of Terror)。

概要

恐怖政治とは、権力者が自らに反対するものを投獄したり、殺戮したりなどという苛烈かつ暴力的な手段を用いて弾圧することによって国民に恐怖を抱かせ、強引に自らの権力を保つような政治全般のことである。「暗黒政治」ともいう。

恐怖政治は、フランス語の普通名詞で「terreur(テルール)」であり、元々の語義は「恐怖」だったが、フランス革命時にロベスピエールらが人々に恐怖を引き起こさせるような政治手法を採り(政治状況を作りだし)、当時の人々がそれを「terreur」と表現し、その後も同様の政治手法を用いる権力者が登場したことで、それも同様に呼ぶようになった。

フランス語においてはメタファー(例え)の技法や詩的表現が発達しているため、フランス語話者には「terreur」だけで十分伝わるが、日本語の語感では「恐怖」だけでは分かりづらいので、後ろに「政治」を付け加えて明示することで、「恐怖政治」と訳している。この「terreur」が、「テロ(=テロリズム)」の語源でもある。

特にフランス革命時のterreurだけを指す場合は(つまり固有名詞的に用いる場合は)、フランス語では前に定冠詞のlaを付けて大文字で始め「la Terreur」と表現する。

独裁政治独裁者が行う政治)や非民主的な政治というのは、しばしば恐怖政治に陥るとされている。

本項ではフランス革命時の恐怖政治から解説し、その後にフランス革命後の恐怖政治一般について解説する。
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出典検索?: "恐怖政治" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2010年12月)
ロベスピエール
ロベスピエール派

ロベスピエール派は革命反対派、穏健派、過激派など反対派の人物を次々と処刑し、恐怖時代(英語版)をもたらした。ジョルジュ・ダントンカミーユ・デムーランジャック・ルネ・エベールアントワーヌ・ラヴォアジェリュシル・デュプレシなど多数が殺された。

恐怖政治が行われた間、パリだけで約1,400名、フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法には銃殺刑が多かったが、ギロチン断頭台)による刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超えるものと思われる[要出典]。

ジャン=ジャック・ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、1794年7月27日に行われたテルミドールのクーデターで、ロベスピエール派が失脚するまで続いた。
開始

1793年3月10日革命裁判所(革命裁)が設置された。革命裁には上訴審がなく、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはフーキエ・タンヴィルが任命された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。そして4月6日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足、恐怖政治への道を開いた。

この頃ジャコバン派では、ジロンド派山岳派が決裂し、ジャン=ポール・マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。

5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。6月1日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕、ジロンド派の新聞は禁止された。翌日、アンリオは武装した群衆を率いて国民公会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。
進展シャルロット・コルデーによるマラー暗殺(ポール・ボードリー画)

山岳派独裁開始後も、当初はジロンド派の抵抗が見られ、地方では6月2日事件への反発が強かった。ジロンド派の宣伝に影響を受けたシャルロット・コルデー7月13日にマラーを殺害した。しかし、こうした抵抗も空しく、多くの人間が断頭台の露と消えることとなる。

6月23日には1793年憲法(通称「ジャコバン憲法」)が制定される。民衆やサン・キュロットなど議会外の要求を代弁する「アンラジェ」のジャック・ルーやヴァルレの主張により、より大きな権限が公安委員会に付与されることになる。公安委員会は再三改組され、7月にジョルジュ・ダントンらは排除され、9月に最終的に12人の委員が決定された。これによりロベスピエールが指導権を掌握、ジョルジュ・クートンルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストなどがそれを補佐する構造が完成した。革命裁判所では検察官のフーキエ・タンヴィルが仮借のない弾圧の執行者となった。

山岳派は、農民の心をつかむため、6月には国有地の小区画での売却や、共有地の分割を認める法律を制定しており、7月17日には領主権の無償廃止を決定する。さらに、27日には、小麦を独占・隠匿したものに対する極刑を規定した。

山岳派と国民公会は要求に応じる形で、巧みに自分たちの政策実現を果たした。

この頃、民衆が武装して一団となって立ち上がるべきだ、という要請が直接行動を重視するセクションの意見として議会に提出されていた。ロベスピエールが議長となった国民公会は、8月23日、ダントンの介入でこれを採択。しかし、これはセクションのイメージと違い、軍を立て直すための一種の国民総動員令であった。これにより93年秋から94年春までに、40万近い兵力が調達された。

公安委員会は9月5日にジャック・ルーを、9月18日にはヴァルレを相次いで逮捕した。「アンラジェ」のクラブや出版物も禁止された。


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