恋の都
[Wikipedia|▼Menu]

恋の都
作者
三島由紀夫
日本
言語日本語
ジャンル長編小説恋愛小説
発表形態雑誌連載
初出情報
初出『主婦之友1953年8月号 - 1954年7月号
刊本情報
出版元新潮社
出版年月日1954年9月20日
装幀猪熊弦一郎
総ページ数256
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
テンプレートを表示

『恋の都』(こいのみやこ)は、三島由紀夫の9作目の長編小説。全20章から成る。敗戦と共に切腹した右翼塾生の恋人のことを思いつづける才色兼備のジャズ・バンドのマネージャーが、彼女の元へ届けられた一本の白檀をめぐって新たな運命にぶつかる恋愛物語。戦後の復興期の東京の風俗芸能界の活気を取り入れた娯楽的な趣の中にも、敗戦から冷戦時代への移行を背景に、戦争に翻弄された男女の複雑な運命が日本アメリカとの関係を軸にして描かれている[1][2]

1953年(昭和28年)、雑誌『主婦之友』8月号から翌年1954年(昭和29年)7月号に連載された[3][4]。単行本は同年9月20日に新潮社より刊行された[5]。文庫版は2008年(平成20年)4月10日にちくま文庫より刊行された[6]
時代背景・主題

『恋の都』の執筆された前年の1952年(昭和27年)にGHQの占領は一応終るが、まだ当時の東京は占領下の延長線上にあり、作中でも米国人に対する日本人の肩身の狭さが所々に読みとれる[1]。また、「MSA」という言葉が何の説明もなく作中に記されているが、『恋の都』刊行翌年の1954年(昭和29年)に日本はMSA協定(安全保障協定)に調印することとなる。さらに、「国際賭博容疑」(銀座で国際賭博を開き、米国人のクラブオーナーが手入れを受ける)、「北九州大水害」などの話題も出てきたり、精神病院の代名詞として「松沢病院」という言葉も使われたり、当時の時事ネタや事件や世相が随所に含まれている[1]

三島は連載にあたって、自作について次のように語っている[7]。私は第二の上海といはれ、東京租界といはれ、植民地都市といはれる、東京といふヌエのやうな都会の、そのいちばん国際的な雰囲気のなかに生活する人たちの物語を書きたいと思ふ。私の小説のことであるから、ルポルタージュと幻想の相半ばしたものになるだらう。だからその女主人公も、東京といふ都会のヌエ的性格をそのまゝに、リアリストでもあり、空想家でもある。彼女は変つてゐる。とつぴな考へをもつてゐる。しかしそれは何も彼女自身のせゐばかりではない。……読者諸姉もどうか彼女の批判をあせらずに、永い目で見てやつていたゞきたい。 ? 三島由紀夫「作者の言葉」[7]

三島が永い目で見てほしいという『恋の都』のヒロイン・まゆみの人物造型は、三島の死んだ年(1970年)以後もグアムルバング島に潜伏してサバイバルな戦争を続けていた日本兵(横井庄一小野田寛郎)に似ていると千野帽子は説明し、まゆみの中では、「国家」や「日本」の輪郭が、周囲の浮ついた戦後を生きている人物たちよりも、明確になっているとしている[1]
あらすじ

26歳独身の朝日奈まゆみは、6人編成の日本人ジャズ・バンド「シルバア・ビーチ」の敏腕マネージャーである。まゆみの父は一代たたき上げの芸能社の社長だったが、終戦直後に脳溢血で倒れ半身不随となったため、一人娘のまゆみが家計を支えていた。英語が堪能で有能な仕事ぶりの美しいまゆみには言い寄ってくるアメリカ人も多かったが、大のアメリカ人嫌いのまゆみは彼らをいつもスレスレのところでうまくかわしていた。そんなまゆみをメンバー達は「聖処女」と密かに名づけ一目置いていた。何から何までアメリカナイズされた環境だが、まゆみの心は国粋思想で、移動の車中で皇居の前を通る時は誰にも気づかれないようにそっと目礼し、ハンドバッグにはいつも一枚の大事な写真が忍ばせてあった。それは、口をきりっと結び、目は烈しい情熱を放っている丸刈りの凛々しい紺姿の青年の写真だった。彼は20歳の右翼団体の塾生で、敗戦と共に代々木原頭切腹死したのだった。まゆみは毎日、誰もいないところでその初恋の人の写真をそっと取り出し、「大丈夫よ。私、アメリカ人なんかに、決して、してやられないから」と誓っていた。

9年前、その青年・丸山五郎(宮原大東亜塾生)は、開塾十周年記念会の余興の講釈師と落語家を依頼しに、中野にあった芸能社の朝日奈家を訪ね、その時に19歳の五郎と17歳のまゆみは出会ったのだった。まゆみは五郎から九州男児らしい熱血文字で書かれた古風な恋文をもらい、中野駅のベンチや代々木練兵場(現・代々木公園)でデートをした。五郎は堅苦しい右翼思想や尊敬する師匠や軍人の話ばかりしていたが、やがて2人は樫の樹かげで初々しい接吻を交わした。そして、まゆみの一家が疎開をする別れ際には、「戦争で日本が大勝利する日に結婚しよう」と誓い合った。しかし日本は敗け、塾を訪ねたまゆみが見たものは、代々木原頭で切腹したという五郎の位牌だった。悲しみから何とか立ち直り、今の多忙な生活に注がれているまゆみの情熱は、この時の空虚と戦っているようなものだった。まゆみは五郎の肉体を抱きしめるように、彼の思想を抱きしめて生きていた。

10月31日、クラブ歌手で友人の梶マリ子に誘われ、まゆみは帝国ホテルで開かれたハロウィーン仮装舞踏会へ行き、マリ子の連れで人気二枚目俳優・千葉光と知り合った。まゆみは光に求愛され少し惹かれたけれども、マリ子との友情の方を選んだ。まゆみには、光と踊っていても五郎の面影がちらつくのだった。その後、「シルバア・ビーチ」は、水道橋の野球場(後楽園球場)で行なわれた大ジャズ・コンサートに参加したが、主催者・昭和芸能社のイカサマが原因で、工藤のドラム・ソロ中に暴徒が雪崩れ込むという一騒動があった。工藤の恋人・安子がその暴徒を制し、それをきっかけに工藤と安子は結婚した。まゆみは今まで安子に抱いていた印象が変り、人や恋愛というものを型にはめすぎていた自分の見方を反省した。

ある晩、まゆみは築地のナイトクラブ「ジプシイ」で、店の米国人マネージャーから、X通信社のドナルド・ハンティントンという政治記者を紹介された。ドナルドは香港駐在中に知り合った日本人・近藤ゴロウから、「朝比奈まゆみという人に渡してくれ」と白檀を託され、やっとまゆみを探し当てたのだった。扇のいちばん端の木片の裏に、「まゆみよ、僕は生きている。丸山五郎」と書いてあるのをまゆみは見つけた。ドナルドによると、近藤ゴロウは30歳前くらいだが、「僕は20歳さ。…僕の年齢はもう存在しないんだ。20歳の時に、僕は死んだのさ。それ以来、僕の年はなくなったんだ」と謎のようなことを言っていたという。そして、英語が堪能なゴロウは半分アメリカ人のようになっていると、ドナルドは詳しい事情は伏せながら言った。扇が「白い檀(まゆみ)」を意味することに気づいたまゆみは感涙し、すぐにでも五郎に会いたかったが、やや冷静になると、五郎が別人のようになっていることを考え、昔の幻を大事にしてお互い別々の道を行く方がいいのではないかとも思った。五郎がアメリカ人のようになっていることを知り、まゆみは自分がこの8年間、婚期を遅らせてまで張りを持って暮してきた意味が消滅し魂を失ったようになった。だがその一方、どんなに変化した五郎でも会いたいという気持もあった。

年が明けた1月下旬に突然、五郎がまゆみに会いに東京にやって来た。高輪泉岳寺近くの料亭で待っていた29歳の五郎は、日に焼けアメリカ製の派手なネクタイをし2世のような面持ちになっていた。20歳の頃の朴訥さはなく大人の落ち着きで、これまでの秘密の経緯を語り出した。五郎は昭和20年の4月に宮原塾長の命を受け、密使として上海へ行って特務機関で働いていたが、敗戦と同時に連合軍収容所に入れられたのだった。日本に残った塾長や先輩達は皆、代々木練兵場で切腹した。五郎は、自分が上海に派遣された理由は、もう敗戦がわかっていた塾長が恋人のいる自分を自決させないよう配慮したのだと今は解ったと言った。そして、終戦時のごたごたで五郎もそこで死んだものと処理され、戸籍も死亡扱いとなり日本国籍がなくなっていたのだという。

収容所の生活で徐々に国粋思想が氷解した五郎は、米軍中尉ホークスの下でボーイをし、中国共産党革命による上海危機の際に米軍中尉らと共に香港へ逃れた。ホークスは五郎を支那語ができる東洋人として、アメリカの某機関のエージェントに使う目的だった。五郎はスパイとして中共に侵入しアメリカのために働き、いつのまにかアメリカ人のような気持になっていった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:68 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef