性善説(せいぜんせつ)と性悪説(せいあくせつ)は、「人はみな生まれつき善の性質をもつ」とする説と「悪の性質をもつ」とする説。
古代中国の儒家の『孟子』と『荀子』の説に由来する。日本では明治時代に西村茂樹や井上哲次郎が哲学・倫理学の問題として再解釈した[1][2][3]。そこから派生して、現代の日本では様々な文脈や意味合いで使われる。
本項では、世碩の性有善有悪説、告子の性無善無悪説、王充や韓愈の性三品説(せいさんぴんせつ、せいさんぽんせつ)[4]といった、関連する他の説についても述べる。 現代の日本では、性善説は「人はみな善人である」という楽観主義、性悪説は「人はみな悪人である」という悲観主義、といった意味合いで広く使われる[5][6][7][8]。しかし本来は、楽観主義や悲観主義ではなく[5][6][7]、どちらも「教育の重要性」を主張するための説だった[7](詳細後述)。 「性」「善」「悪」いずれも古代から明確な定義が無く、そのせいで議論がすれ違ったことが対立の原因である、とも言われる[9][10][11][注釈 1]。 ここでいう「性」は「自然本性」「生まれつきの性質[13]」「生まれながらの性質」「本質的属性[14]」「先天性」「天与の性」などと訳される。 古代中国において、「性」は善悪の問題に限らず様々な文脈で論じられていた[15][16]。孟子と荀子の前後には、例えば『論語』陽貨篇の孔子の言葉「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}性相近也、習相遠也(せいあいちかし、ならいあいとおし)」[17][注釈 2]や、『荘子』の「復性」説[21][22]、『呂氏春秋』蕩兵篇[注釈 3]、『礼記』中庸篇など儒教経典[15][24]、出土文献の郭店楚簡『性自命出』[25][26]などで性が論じられていた。善悪についても、世碩の「性有善有悪説」が先にあった[19]。性善説と性悪説は、そのような背景のもとに生まれた。 孟子の性善説は、「世に悪人がいる」ことを前提に「それでも性は善である」と主張する説だった[28]。つまり孟子によれば、どんな人間でも井戸に落ちそうな幼児や屠殺されそうな家畜を見たとき、憐れみなどの道徳感情(不忍人之心(ひとにしのびざるのこころ)、四端)が生じる[28]。
解説
歴史
背景
性善説と性悪説『孟子』江戸時代の刊本[27]