この項目では、前漢時代の漢字学習書について説明しています。明治時代の日本で作られた中国語教材については「官話急就篇」をご覧ください。
皇象碑の拓本
『急就篇』(きゅうしゅうへん)は、前漢末の史游の作と伝えられる漢字学習書。たんに『急就』[1]、あるいは『急就章』[2]とも呼ぶ。 『急就篇』は前漢の元帝の宦官であった史游の作とされ[1]、「急就奇觚与衆異」で始まるために『急就篇』と呼ばれる。漢字を韻をふむように並べて学習しやすいようにしたもので、漢から唐に至るまで広く使われたが、学習書として千字文・百家姓・三字経などが使われるようになると急就篇は衰えた。 『急就篇』は章草の手本として使われ、唐の張懐?『書断』では史游を章草の祖としている[3]。 先行する同様の書に『史籀篇』『蒼頡篇』などがあったが、いずれも現存していない(ただし『蒼頡篇』は部分的に出土資料がある)。『急就篇』は完全な形で残っている最古の漢字学習書である。 『急就篇』には多くの注釈がつけられたが、顔師古によるものが現存するほかは滅んだ。南宋の王応麟は顔師古のものにさらに補注を加えた。 現行の急就篇は34章にわけられており、32章までの各章は63字、33章と34章は64字で、全部で2144字からなる。『四庫全書総目提要』には文字が重複していないとあるが、これは誤りであり、たとえば「相」字は10回出てくる。一句は七字、四字、三字のいずれかよりなる。開題のあと、7章までは人名を羅列し(三字一句、偶数句末押韻)、それ以降は関係した字をまとめている。 王応麟によると最後の2章128字は後に追加されたものであり、また皇象の碑には第7章(63字)がなかったという[4]。 三国時代の呉の書家である皇象の書に由来すると言われる、章草で書かれた『急就章』の石刻が現存する(上海市松江区の松江博物館蔵)。これは明の正統4年(1439年)に刻されたもので、北宋の宣和2年(1120年)に葉夢得 『急就篇』の文句「分別部居不雑廁」は、『説文解字』序に引用されている。 『急就篇』の名をつけた書物も多く編纂された。
成立
内容
皇象碑
後世への影響
南宋の王応麟は、『姓氏急就篇』を作った。
宮島大八『急就篇』(『官話急就篇』)は戦前の代表的な北京語学習書。
脚注^ a b 『漢書』芸文志「急就一篇、元帝時黄門令史游作。」
^ 『隋書』経籍志一「急就章一巻、漢黄門令史遊撰。急就章二巻、崔浩撰。急就章三巻、豆盧氏撰。」
^ 張懐?『書断』「章草者漢黄門令史游所作也。」
^ 王応麟『玉海』巻四十四
外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。急就篇
弘法大師急就章 讃岐萩原寺蔵版
『急就篇、王応麟補注、巻1-2(玉海に附属)
『急就篇、王応麟補注、巻3-4(玉海に附属)