logo怡土城
(福岡県)
怡土城跡のある高祖山
手前山裾に土塁線、左稜線の各峰に第1-第5望楼跡が所在。
城郭構造古代山城(中国式山城)
築城主吉備真備→佐伯今毛人
築城年開始:天平勝宝8年(756年)
完成:神護景雲2年(768年)
廃城年不明
遺構土塁・石塁・濠・城門・水門・望楼
指定文化財国の史跡「怡土城跡」
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度32分53.70秒 東経130度16分7.05秒 / 北緯33.5482500度 東経130.2686250度 / 33.5482500; 130.2686250
怡土城(いとじょう / いとのき)は、筑前国怡土郡の高祖山(現在の福岡県糸島市高来寺・大門・高祖)にあった日本の古代山城(分類は中国式山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 福岡県の西部、糸島市・福岡市の境をなす高祖山(標高416メートル)の西斜面に築城された古代山城である[1]。奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。これまで1936年(昭和11年)以降に発掘調査が実施されている[2]。 城は高祖山の西斜面にたすき状に構築され、北西尾根線上・南西尾根線上に望楼跡が、西山裾に南北約2キロメートルの土塁線が遺存する。また城域からの出土遺物として、多数の瓦片・土器片・?片などが検出されている。他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して奈良時代の築城である点で特色を示すほか、文献上で築城担当者・築城期間が明らかな点、他の古代山城のような朝鮮式山城でなく大陸系の中国式山城である点でも重要視される遺跡になる[3]。 城跡域は1938年(昭和13年)に国の史跡に指定されている[4]。 怡土城の築城について、『続日本紀』では次のように記載されている[1][5][6]。 築城目的は詳らかでないが、今日では唐の安禄山の乱に対する備えとする説、対新羅政策の一環とする説の2説が特に知られる(考証節参照)。ただしいずれの説としても、怡土城が当時の実戦に使用されることはなかった。また最初の築城担当者の吉備真備については、築城以前に遣唐使として2度入唐したことや兵法に長けた人物であることが知られるが、怡土城築城に際してはその知識が活かされたと推測され、実際に城の様式は大陸系の中国式山城とされる[1][5][6]。
概要
歴史
築城吉備真備
(『前賢故実』より)
天平勝宝8年(756年)6月[原 1]、大宰大弐の吉備真備が専当官に任官、築城開始。
天平宝字3年(759年)3月[原 2]、吉備真備が大宰府防衛の不安4条を朝廷に奏上。東国防人の復活、西国防人の怡土城築城従事を要望。
天平宝字8年(764年)1月[原 3]、吉備真備が造東大寺長官に任官(その後帰京)。
天平神護元年(765年)3月[原 4]、大宰大弐の佐伯今毛人が築怡土城専知官に任官(築城継続)。
神護景雲2年(768年)2月[原 5]、怡土城完成。