快楽の園
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「悦楽の園」はこの項目へ転送されています。木地雅映子の小説については「悦楽の園 (小説)」をご覧ください。

『快楽の園』
作者ヒエロニムス・ボス
製作年1503年-1504年(他説あり)
種類油彩
寸法220 cm × 389 cm (87 in × 153 in)
所蔵プラド美術館マドリード

『快楽の園(かいらくのその、: Tuin der lusten、西: El jardin de las delicias)』、または『悦楽の園(えつらくのその)』は、初期フランドル派の画家ヒエロニムス・ボスが描いた三連祭壇画。ボスが40歳から60歳の1490年から1510年の20年間のいずれかの時期の作品で[1]1939年からスペインマドリードにあるプラド美術館に所蔵されている。ボスの作品の中でも最も有名な作品で[2]、かつ最も大がかりな作品である[3]。この絵画はボスが画家としての最盛期にあったときに描かれ、この作品のように複雑な寓意に満ち、生き生きとした表現で描かれているボスの作品は他に存在しない[4]
体裁

この三連祭壇画は板に油彩で描かれたもので、長方形の両翼を閉じると中央パネルを完全に隠す(いわば三面鏡のような)構造になっており、両翼裏面それぞれに半円ずつ描かれた天地創造地球(当然ではあるが描かれている地球は当時の人々の考える(すなわち天動説を基にした)地球の姿である)のグリザイユが現れる。三枚のパネルに描かれている絵画はおそらく左翼、中央パネル、右翼へと展開する物語になっているが、必ずしも左翼から観なければならないというわけではない。左翼には神がアダムイヴを贈る場面、中央パネルには猥雑で人目を引く裸体の人物、空想上の動物、巨大な果物、石などが積み上げられた構造物などの広大な情景、右翼には地獄で拷問を受ける罪人などがそれぞれ描かれている。

美術史家や評論家は『快楽の園』を誘惑からの危険に対する警告を意図した作品であると解釈することが多い[5]。しかしながら、特に中央パネルに描かれた複雑な象徴的意味が何を表しているのかが何世紀にもわたって学術論争の的になってきた[6]。20世紀の美術史家の間では、祭壇画の中央パネルには道徳的な警告が描かれていると解釈する研究者と、失楽園が描かれていると解釈する研究者との二派に大きく分かれている。アメリカ人作家のピーター・S・ビーグルは「不道徳で享楽的な雰囲気に満ちあふれ、観る者全てを窃視症にするかのような性的狂乱が描かれている」としている[7]

ボスは画家としてのキャリアを通じて、3点の大きな三連祭壇画を制作した。どの祭壇画もそれぞれのパネルに描かれた題材が重なり合い、全体として一つの意味が表現される構成になっている。これら3点の祭壇画に共通して言えることは、どれも特定の歴史や信仰に直接関連するテーマを扱ったものではないということである。当時の三連祭壇画は左翼、中央パネル、右翼へと物語が流れていき、両翼にはエデンと最後の審判が描かれ、中央パネルには何らかの寓意を秘めた作品が多かった[8]。『快楽の園』が教会の装飾用として制作されたのかどうかははっきりとしていない。しかし、中央パネルと右翼に描かれている極端な内容からすると教会や修道院で使用されていたとは考えにくく、一般信徒の依頼に応じて制作された可能性が高い[9]
来歴

『快楽の園』の制作年度ははっきりしていない。ルードヴィヒ・フォン・バルダスは1917年の著作で、ボスの若年期の作品ではないかとしている[10]。しかしながら1937年のシャルル・デ・トルネイの著作以来[11]、20世紀美術史家の間では、この絵画が1503年から1504年にかけて描かれた作品か、あるいはもっと後になってから描かれた作品であるという見解で一致している。どちらの見解であれ、制作年度の根拠はこの作品における空間表現の「古典的」な手法にある[12]。現代になってからの年輪年代学の測定で『快楽の園』に使用されているオーク板が1460年から1466年の間に切り出されたものであり、少なくともこの作品がその年代以降に描かれたことが判明した[13]。絵画の支持体として木板を使用する場合には、経年変化によるひび割れなどの原因となる水分を抜くために一定期間そのまま保管されるため、このオーク板にボスが『快楽の園』を描いたのは板が切り出された年代よりも数年以上後のことになる。さらにこの作品には「新世界」である南アメリカ原産の果物であるパイナップルが描かれていることから、クリストファー・コロンブスによる1492年のアメリカ大陸の発見以降に描かれたと推測されている[13]。しかしベルナール・ヴァルメは年輪年代学による測定を根拠に[14]、『快楽の園』はもっと早い年代に描かれたものであり、「新世界」の産物が描かれているというのは誤りで、作品に描かれているのはアフリカの産物であると主張している[15]。ヴァルメは、ボスが古典的手法にこだわってこの絵画を描いたというデ・トルネイの考えを否定し、より新しい芸術性を求めていたとした。そしてこの絵画がナッサウ=ヴィアンデン伯エンゲルベルト2世 (en:Engelbert II of Nassau) の依頼に応じて制作されたもので、その時期はエンゲルベルト2世がスヘルトーヘンボス金羊毛騎士団の会合に出席した1481年か、その直後であると主張した[16]『ナッサウ=ヴィアンデン伯エンゲルベルト2世の肖像』アムステルダム国立美術館

『快楽の園』が最初に文献に現れるのは1517年で、ボスが死去した翌年にあたる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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