忠臣蔵
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忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、 人形浄瑠璃文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件をもとにした創作作品。

脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分もある(赤穂事件参照)。
解説

江戸時代中期の元禄14年3月14日1701年4月21日)、江戸城殿中松之大廊下赤穂藩藩主・浅野長矩(内匠頭)高家肝煎吉良義央(上野介)に刃傷に及んだことに端を発する。この一件で加害者とされた浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなった。その結果を不服とする赤穂藩国家老大石良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名、いわゆる「赤穂四十七士」(あこうしじゅうしちし)は、紆余曲折のすえ元禄15年12月14日1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び武林隆重が吉良を討ち取り、間光興が首をはねた。そしてその後の泉岳寺への引き上げ、浪士たちの切腹、遺族の処罰(連座)までの一連の事件を総称して、今日の史家は「赤穂事件」と呼んでいる。詳細は「赤穂事件」を参照「忠臣蔵十一段目夜討之図」 歌川国芳画。

この赤穂事件がはじめて舞台に取り上げられたのは、討ち入り決行の翌年である元禄16年の正月、江戸山村座の『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の五番目(大詰)である。曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せた。討入りから4年後の宝永3年(1706年)には、この事件を題材に南北朝時代に変えた近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されている。大星(大石)の妻や母親が大星の無能振りを嘆いて自害する、力弥(主税)が加古川本蔵(多胡真蔭)を斬殺する、酸いも甘いも弁えた荒法師・吉田兼好が高師直(吉良)に協力するなど史実とは異なる脚色も多い。

宝永7年(1710年)、大坂の篠塚座での『鬼鹿毛無佐志鎧』(おにかげ むさしあぶみ)は、冒頭で驕れる小栗(浅野)と荒ぶる大岸(大石)を「君子にあらず」と諷刺する『中庸』「第十章」からの引用で始まり、後世の義挙とする忠臣蔵、なかんずく大石を賞揚した内容にはなっていない[1]。しかし、幕府は「前々も令せられしごとく、当世異事ある時、謡曲芝居小歌につくり、はた梓にのぼせ売りひさぐ事、弥々停禁すべし。戯場にても近き異事を擬する事なすべからず(大成令)」と禁令を出し、この事件を扱うものは現れてきていない[2]
「忠臣蔵」の誕生

延享4年(1747年)には初世沢村宗十郎が京都中村粂太郎座の『大矢数四十七本』で大岸宮内を演じた。そしてその集大成が寛延元年(1748年)8月に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。初演のときには「古今の大入り」、すなわち類を見ないといわれるほどの大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取り入れられている。

『仮名手本忠臣蔵』はのちに独参湯(薬の名前)とも呼ばれ、客が不入りの時でもこれを出せば当たるといわれるほどであった。さらに歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」と呼ばれるジャンルを形成する。そのような作品のひとつに『仮名手本忠臣蔵』と怪談を組み合わせた鶴屋南北作『東海道四谷怪談』がある。

江戸時代、江戸幕府から同時代に起こった武家社会の事件を文芸や戯曲で取り上げることは禁じられていたので、赤穂事件についても幕府を憚って舞台を室町時代とし、登場人物を他の歴史上の人物に仮託していた。近松の作品では『太平記』の時代を舞台とし、登場人物の名として浅野内匠頭を塩冶判官(塩冶高貞)、吉良上野介を高師直に擬し、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕したことを発端としており、『仮名手本忠臣蔵』でもこれに倣っている。しかし事件を表現していることがわかるように、塩冶の「塩」は赤穂の特産品である「赤穂塩」、高師直の「高」は吉良上野介の役職「高家」とかけられている。太平記に登場しない人物の名も変えられた(大石内蔵助→大星由良助など)。

「忠臣蔵」という題名の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助の「蔵」にかけているなどとされるが、定かではない。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は忠臣蔵ものと呼ばれることになる。

明治以降、江戸幕府が滅亡しその憚りがなくなったので、登場人物の名を実名で上演することができるようになった。明治41年から福本日南が忠臣蔵の真相と銘打って、義士録をもとに浪士側に立った『元禄快挙録』を新聞連載して話題となり、近代日本の忠臣蔵観を主導した[3][4]。「忠臣蔵」は人気が高く、昭和9年(1934年)には資料調査をした新歌舞伎元禄忠臣蔵』(真山青果作)が上演されている。講談浪曲でも忠臣蔵は人気があり、「赤穂義士伝」と呼ばれ、事件の史実を扱った「本伝」、個々の赤穂四十七士を描いた「義士銘々伝」、周辺のエピソードを扱った「外伝」からなる。

第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われた。連合国軍最高司令官総司令部は日本国内での報復運動の高まりを恐れ、「忠臣蔵」を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとし(仇討ちという復讐の物語なので)、当事件を題材とした作品の公演、出版などを一時期禁止したが、昭和22年(1947年)にはその禁も解かれ、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が東京劇場で上演されている。赤穂義士祭の義士行列

本所の吉良邸襲撃の日は旧暦12月14日(正確には翌日未明)であったが、現在に至るも新暦12月14日が近づくと忠臣蔵のテレビドラマや映画が放映されるなど、その人気は衰えを見せない。多くの映画製作、テレビドラマ化、舞台上演がほぼ毎年行われている。現在では、多くの資料研究の進展を反映させた書籍の出版や実名での作品化がなされるようになり、価値観の多様化と研究考証から、討ち入りに参加しなかったあるいは出来なかった赤穂藩士、討ち入り後に残された義士の遺族や子孫、敵役とされる吉良側、当時の江戸幕府の事情など、様々な視点に立って作品化がなされている。



「忠臣蔵」の評価 

江戸時代から現代まで、「忠臣蔵」を描いた物語がありとあらゆるメディアで幾度となく作られてきた。



文学者の
ドナルド・キーンは忠臣蔵が元禄時代の人々の関心を集めた理由として当時の世相を指摘している。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において「武士道は過去のものであり、二度と戻らぬフィクションだと信じられていた。ところがその過去の夢がまったく突然に戻ってきた。それは赤穂四十七士の復讐」であったのである[5]

現代の「忠臣蔵」論の多彩な展開のいわば原点となっている[6]映画評論家の佐藤忠男の意見によれば、吉良邸討ち入りは「忠義」を名目にしているものの、本質的には武士の意地を示す行動であり、民衆もその意地に感動したのだという[7]。また、忠臣蔵映画が大量に作られた理由として、忠臣蔵映画がいわば俳優の顔見せ的な役割を担っていたことが指摘されている[7]

歴史学者の山本博文は「忠臣蔵」に人気がある理由として、仇討ち物語であることや幕府への抵抗としての側面があることにふれた上で、「(忠臣蔵に)私達が感動しているのは、(中略)何か目標の為に、命を捨てて行動する「自己犠牲の精神」があるという単純な理由からなのではなかろうか」と指摘している[8]

歴史学者の尾藤正英は、忠臣蔵に人気がある理由として「組織の名誉を守るためには、自己の命を捨てても悔いない心、すなわち士的な利害の関心を超えた、公共精神とでもいうべきものが、忠義として表彰されていた」ことがあると指摘している[9]

演芸作家で講談浪曲の著書がある稲田和浩によれば、人々が忠臣蔵を好む理由として以下の5つがあるという:判官贔屓[10]、団体戦[10]、散りゆく者の美学[10]、献身[10]、勧善懲悪[10]

映画評論家の谷川建司は、忠臣蔵が愛されてきた理由としてカタルシスを挙げている。たとえば浅野内匠頭の切腹の際、無言であることを条件に切腹への立ちあいを許された片岡源五右衛門のエピソードのように、「口には出さなくとも分かってほしい」という強い願望と、「口には出さずともおまえの気持はよく分かっている」というエピソードを追体験することで、強いカタルシスを感じられるようにデザインされていることが忠臣蔵の魅力なのだとしている[11]。谷川はまた、高度経済成長期に忠臣蔵が人気があった理由として、四十七士の達成感をスクリーンを通じて共有することで、第二次大戦の敗戦でズタズタになった日本人のプライドの「再生」を確認することがあったのではないかと述べている[12]

作品一覧詳細は「赤穂事件を題材とした作品」を参照
脚色や創作による伝承

赤穂事件には「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域を出ていないものを挙げる。
山鹿送り山鹿素行

山鹿素行は独自の軍学山鹿流を興し、様々な大名に兵学を教えていたが、著書の一つ「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、播州赤穂にお預かりになった。

22歳の内蔵助は山鹿素行を赤穂まで護送する任務にあたったが、山鹿素行の門下の者がこれに反発して襲撃してくる。しかし内蔵助は門下の者たちに、「ここで素行を奪い返すは幕府に弓を引くも同然」と道理を説いて説得し、無事山鹿素行を赤穂まで連れてくる。

講談ではこの後、内蔵助は山鹿素行から軍学を学ぶことになるとしている[13]
史実

万治3年(1660年)に大石は1歳、寛文5年(1665年)でも、わずか6歳である。山鹿素行は大石良雄についてまったく記していない。さらに、山鹿流には「仇討ちは、天下の大道にて目のある場(衆人環視)で討ち果たすが手柄と云うべし。敵が家中に居るを、人知れず踏み込むは悪しき下策なり。是れ夜盗と大差なし」[14][要非一次資料]とある。また、山鹿流を藩学とする津軽氏と松浦氏は、『山鹿語類』に「中道にして廃す、道のとぐべき処なし。故に勤行を以て士の勇とする也」[15][要非一次資料]とあるを以って、勅使饗応を私恨により中途放棄した浅野長矩と、それに続く元禄赤穂事件を批判している(両家は近現代には天皇家の姻戚となる[16])。
松之大廊下の刃傷に関する逸話
浅野長矩の動機
長矩夫人の阿久里に義央が横恋慕した
[17]

義央が皇位継承問題に絡んだため、長矩が怒った[18]。義央の悪名を聞いた長矩が、天誅を下そうと思った[19]

長矩の美少年な児小姓を吉良が望んだが、長矩が断った(『誠忠武鑑』)

浅野家秘蔵の茶器を吉良が望んだが、長矩が断った(『聴雨窓雑纂』)

ある茶会で披露された書画について吉良は「一休宗純の真筆」と鑑定したが、長矩が「贋作だ」と述べた(赤穂精義参考内侍所)

柳沢吉保の関与絹本著色柳沢吉保像(部分、一蓮寺蔵)

忠臣蔵のドラマでは、当時将軍の側用人として権勢をふるった柳沢吉保が、いわば事件の黒幕として振る舞っていたように描くものがあり、例えば大佛次郎の『赤穂浪士』では柳沢は吉良に「聞き分けのない浅野はいじめてしまえ」という趣旨のことを言う。

史実でも『多門伝八郎筆記』には柳沢の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった旨が書いてあり、事件への柳沢の関与をにおわせるが[20]、後述するようにこの文献の記述には創作が多い。
脇坂淡路守が吉良を殴打

殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。諸大夫の五位が四品の高家に暴行に及んだ咎で脇坂は老中に罰せられ、赤穂城は与えられる可能性のあった脇坂家でなく永井家のものとなる[21]

この話は1912年の浪曲の筆記本に見える[22]が、史実としての確認はできず、伝承・巷談の域を出ない。

史実において脇坂安照は、赤穂城受け取りの時の正使であった[23]
切腹を迫られる吉良

柳沢吉保が吉良上野介に切腹を申しつけたという風聞が『浅吉一乱記』に記されている[24]

一方、初期の実録本『赤穂鍾秀記』には吉良上野介が妻の富子から切腹するように言われたとか、上杉家の家老からもし吉良が切腹すれば追い腹を斬ると言われたとあるし[24]、『江赤見聞記』の七巻も上杉綱憲の近習から吉良が存命だと上杉家に災いがあるかもしれないから切腹するよう勧められたという風聞を記している[24]
浅野内匠頭の切腹に関する逸話
『多門伝八郎筆記』における逸話

浅野内匠頭の切腹に立ち会った多門伝八郎は、その時のことを記した『多門伝八郎筆記』を残しており、そこに書かれた逸話が忠臣蔵のドラマなどで描かれることも多い。以下、『多門伝八郎筆記』に記載された逸話を紹介するが、この筆記は他の資料との比較により、創作が多分に含まれている[20]ことが判明しているので、以下の逸話の信憑性は不明である。

(多門が浅野を慰める)多門が浅野に殿中で刃傷におよんだ理由を聞いてみたところ、浅野は「私の遺恨」ゆえに刃傷におよんだものの、吉良に負わせた傷が浅手だったのが残念だと答えた[20]


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