忠犬ハチ公
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ハチ晩年のハチ
別名・愛称ハチ公
忠犬ハチ公
生物イヌ
犬種秋田犬
生誕1923年大正12年)11月10日
日本 秋田県北秋田郡二井田村
(現在の大館市
死没1935年昭和10年)3月8日
日本 東京府東京市(現在の東京都渋谷区
飼い主上野英三郎東京帝国大学農科大学教授)

忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)は、日本の忠犬。大正末期から昭和初期にかけて、東京市渋谷駅まで飼い主の帰りを出迎えに行き、飼い主の死去後も約10年にわたって通い続けて飼い主の帰りを待ったという逸話で知られる。
概要

犬種は秋田犬(あきたいぬ)で、性別はオス。名前はハチ。ハチ公の愛称でも知られる。

ハチが飼い主を待ち続けた渋谷駅の出入り口の前にはハチの銅像が設置されており、この「忠犬ハチ公像」は渋谷シンボルともなっている。観光名所としても有名である[1]

ハチは、飼い主が死去した後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として知られる。東京・渋谷をはじめ、ゆかりの地には像が置かれている。特に渋谷駅前のハチ公銅像は、いつしか待ち合わせの目印として使われるようになり、その銅像周囲は待ち合わせ場所としては「ハチ公前」などと呼ばれ、広く親しまれている。

ハチの飼い主は東京府豊多摩郡渋谷町大向(現:東京都渋谷区松濤一丁目)に住んでいた、東京帝国大学の教授である上野英三郎であった[2][3][4]。彼は大変な愛犬家であり、出かける時には渋谷駅までハチを伴うことも多かった[5]。しかしながらハチを飼い始めた翌年にあたる1925年(大正14年)に上野は急死した。

上野英三郎の死後も渋谷駅前で亡くなった飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、新聞記事に掲載され、人々に感銘を与えたことから「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。

さらに、1934年(昭和9年)には渋谷駅前にハチの銅像が設置されることとなり、その除幕式にはハチ自身も参列した。同じく1934年(昭和9年)に尋常小学校2年生の修身教科書には、「恩ヲ忘レルナ」の話題としてハチの物語が採用された[6]。これをファシズムと関連づける見解がある[7]が、1936年(昭和11年)発行の修身教科書の「恩ヲ忘レルナ」の話題は大正時代の修身教科書の「永田佐吉の恩返し」に戻り、1938年(昭和13年)発行の修身教科書の「謝恩」の話題は大正時代の修身教科書の「謝恩」の話題「豊臣秀吉夫妻の恩返し」に戻っており、ハチの物語は二度と修身教科書に採用されなかった[8]

ハチの銅像は第二次世界大戦中の金属供出によって破壊されたが、戦後再建され、現在に至るまで渋谷のシンボルとして、また渋谷駅前における待ち合わせの目印となって立像している[5]

映画化もされ、1987年に『ハチ公物語』(松竹) が、2009年にはハリウッド映画HACHI 約束の犬』が公開された。また、2023年には中国で映画『忠犬八公』が公開され、劇中の犬の名前は「八筒」(麻雀牌の八筒に由来)に替えられたが、映画の題名はハチ公を漢字表記した「八公」であり、1987年の『ハチ公物語』を原型に改編したリメイク作品であることが表題とクレジットに明記された。
生涯
生誕

ハチは1923年(大正12年)11月10日[注釈 1]秋田県北秋田郡二井田村(現在の大館市)大子内の斉藤義一宅に八頭の兄弟で誕生した[注釈 2]。父犬の名は「オオシナイ(大子内)」、母犬の名は「ゴマ(胡麻)」で、赤毛の子犬であった。
上野宅での生活忠犬ハチ公と上野家

東京帝国大学農学部で教授を務めていた上野は秋田犬の仔犬を飼いたいとの希望があり、ハチは世間瀬という人物によって上野のもとへ届けられることになった。ハチの価格は30円(当時)であり、生後間もない1924年(大正13年)1月14日、に入れられて大館駅を出発。急行第702列車の荷物車にて20時間の移動後、東京の上野駅に到着した[9]

上野の居宅は、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷大向834番地で、ハチは「ジョン」と「エス (S)」という二頭の犬たちと共に飼われた。このうちポインター犬のジョンは、特にハチの面倒見が良かった。

ハチは、玄関先や門の前で主人・上野を必ず見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。
上野の死後

ハチを飼い始めて1年余りが経った1925年(大正14年)5月21日、主人・上野は農学部教授会会議の後に脳溢血で倒れ、急死してしまう[5]。ハチは、この後3日間は何も食べなかった。同25日には故主・上野の通夜が行われたが、その日もハチは、ジョンとエスと一緒に上野を渋谷駅まで迎えに行っていたという。

その後、ハチは上野の妻である八重の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられたが、人懐っこい性格から店に客が来るとすぐ飛びついてしまうため商売にならず、そのため浅草の高橋千吉宅へと移された。しかし、ハチの上野を慕う心は甚だしかったためか、散歩中に渋谷へ向かって逸走するなどのことがあるほどだった[5]。さらに、ここでもハチのことで、高橋と近所の住人との間でもめごとが起こり、ハチは再び渋谷の上野宅へ戻されてしまう。

渋谷に戻ったハチは近所の畑で走り回り、作物を駄目にしてしまうということから、今度は渋谷の隣、豊多摩郡代々幡町大字代々木富ケ谷に住んでいた、上野宅出入りの植木職人で、ハチを幼少時から可愛がっていた小林菊三郎のもとに預けられる[5]。ハチが代々木富ケ谷の小林宅に移ったのは、上野が死亡してから2年余りが経った1927年昭和2年)秋のことであった。この頃から渋谷駅で、上野が帰宅していた時間にハチが頻繁に目撃されるようになった。ハチは小林にもねんごろに愛育されていたのにもかかわらず、渋谷駅を訪れては道行く人々を見て、食事のために小林宅に戻ってはまた渋谷駅に向かうということを繰り返していた[5]。ハチが渋谷駅を訪れる際には、途中の渋谷大向にある旧上野邸に必ず立ち寄って、窓から中を覗いていたという。

ハチは白い犬だったが、毎日渋谷駅に来ていたため汚れてしまい、さらに当時は犬は「安産の象徴」とされており、身に付けていた胴輪を心ない人から「安産のお守り」としてよく盗まれていたため、野犬と間違われ何度も野犬狩りで捕まった。ハチは逃げるのが遅かったため、簡単に捕まっていたという。
忠犬ハチ公渋谷駅のハチ公、1933年(昭和8年)頃。写っている男性は駅長

渋谷駅前に現れ故主を待つようになったハチは、通行人や商売人からしばしば虐待を受けたり、子供のいたずらの対象となったりしていた。

一方、上野を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長の斎藤弘吉1932年(昭和7年)、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を新聞に寄稿した。これは『東京朝日新聞』に「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心を打った。ハチについては翌1933年(昭和8年)にも新聞報道され、さらに広く知られるようになり[5]、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれ、かわいがられるようになる。

ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、またその人気から渋谷駅はハチが駅で寝泊りすることを許すようになった[5]


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