この項目では、広島県竹原市の地区について説明しています。かつて存在した自治体については「忠海町」をご覧ください。
北側からの忠海 忠海駅前
地理院地図
Googleマップ 忠海忠海(ただのうみ)[1]は、広島県南中部の地名。ここでは瀬戸内海に面する竹原市内の地区である忠海地区について述べる。
目次
1 地理
2 沿革
2.1 中世まで
2.2 近世
2.3 近代以降
3 文化
3.1 文化財
3.2 祭り
3.3 関連作品・ロケ地
4 ギャラリー
5 交通
6 脚注
7 参考資料
8 関連項目
地理、その南が愛媛県今治市との県境で大三島になる[2]。
忠海長浜付近の海岸は日本百景に選ばれた絶景で、『エデンの海』の舞台となった[3]。
以下、忠海の名の付く地名を示す。 この地の沖合でナウマンゾウの臼歯が、また周辺では弥生時代の土器片が発見されている[4]。 平安時代、この地は「乃美の浦」と呼ばれていた[5]。大治4年(1129年)、平忠盛は山陽道・南海道の海賊追討使に抜擢されると、この地は忠盛により平定される[6]。この際に忠盛は自らの名を2つに分け、北側の浦を「忠海」、南の大三島の地を「盛」(盛漁港)と名付けた[5][6]。これが忠海の由来である。なお忠盛の息子である平清盛によって日宋貿易が始まりそれにより瀬戸内海にいくつか港が整備されたが、忠海はこの時点で整備されていない[7]。 鎌倉時代、小早川氏の所領だったこの地は[8]、鎌倉末期にその庶家である浦氏の所領となる。 康応元年(1389年)、今川貞世(了俊)が記した足利義満の厳島詣随行記『鹿苑院義満公厳島詣記』によると、義満一行は帰路の途中この付近で座礁したため忠海で潮を待ち、一句詠んでいる[5][6]。うきねする沖津とまりをいそげとや あけぬ夜潮に船のおくらん ? 足利義満、[5] つまり、室町時代には忠海は港として機能していた[5][6]。例えば壬生家は年貢の積出港としてここを用いていた記録が残っている[5]。当初の和船は艪漕き中心であったため山陽沿岸に”地乗り”航路が整備され、のちに一枚帆で追い風をはらんで更に潮の流れを利用して航行する和船が登場すると暴風雨を避け順風を待つ”風待ち”港や上げ潮や下げ潮を待つ”潮待ち”港が整備された[7][9]。
忠海東町 タダノウミヒガシマチ 〒729-2317
忠海中町 タダノウミナカマチ 〒729-2316
忠海床浦 タダノウミトコノウラ 〒729-2314
忠海長浜 タダノウミナガハマ 〒729-2315
忠海町(大久野島域のみ)タダノウミチョウ 〒729-2311
2005年忠海地区周辺。国土交通省 ⇒国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。 1981年大久野島および小久野島。国土交通省 ⇒国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。 忠海地区の目安
沿革
中世まで